『日経研月報』特集より

「新しい資本主義」を巡る対立を解きほぐす

2022年8月号

遠藤 業鏡 (えんどう かづみ)

日本大学経済学部 教授

1. 「花ざかり」のネオロジズム

環境・社会・ガバナンス(ESG)や持続可能な開発目標(SDGs)という用語が広く定着した現代において、企業の社会的責任(CSR)について語ることは時代遅れと映るかもしれない。「企業の社会的責任」が『現代用語の基礎知識』に初めて載ったのは1973年、経済同友会が『経営者の社会的責任の自覚と実践』を決議したのは1956年であるから、なるほど確かに古くからある言葉ではある。ESGやSDGsという横文字のネオロジズム(新語)を好んで用いる識者は、CSRという「古い革袋」を捨てて、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」を実践しようとしているだろう。
しかし、よく考えてもらいたい。SDGsとは2030年までに世界全体が目指す目標のことである。そのため、2030年を過ぎればSDGsという用語は死語になり、SDGsをタイトルに冠した数多の書籍も「古書」になる。昨今流行しているESGとてCSR活動の評価側面に過ぎない。社会的責任については、2010年に成立した国際規格ISO 26000(以下、規格)の中で明文化された定義が存在するが、ESGにこのような定義は存在しない。規格がESG思考をビルトインしているため、ESGの定義なるものは不要なのである。
このことを具体的にみていこう。規格2.18は社会的責任を「組織の決定及び活動が社会及び環境に及ぼす影響に対して、次のような透明かつ倫理的な行動を通じて組織が担う責任」と定義している。別の箇所では「組織統治(organizational governance)」の重要性についても言及し、「組織統治は、組織が自らの決定及び活動の与える影響に責任をもち、社会的責任をその組織全体及び自らの関係に統合することを可能にする最も決定的な要素である」と表現している。要約すれば、規格は社会(S)と環境(E)への配慮を事業活動に統合するガバナンス(G)を求めているのである。「CSR経営はもう古い、これからはESG経営の時代だ」という言明がいかに的外れかわかるであろう。政治家や学者にとって、新しい名称を提唱することは一番楽な自己満足である。しかし、共有価値の創造(CSV)のように定義不明瞭なネオロジズムはいずれ使い捨てられてしまう。持続可能性を巡る言説はネオロジズム「花ざかり」の様相を呈しているが、真に必要なのはCSRという「古い革袋」についての正確な理解である。以下ではCSRが孕む対立点を明らかにしていく。

2. CSR諸構想の対立

社会学者のダニエル・ベルは、1973年に著した『脱工業社会の到来』の中で、「社会的責任に関する問いが株式会社を巡る論争の核心になるだろう」と予測した。その後の歴史を知っている我々からすれば、慧眼としか言いようがない。CSRに関する構想は多元的に対立しており、CSRを「ステークホルダー資本主義」、「パーパス経営」といった別の用語に置き換えても対立は解消されない。それどころか、空振りの批判を再生産するだけに終わってしまう可能性がある。
岸田首相が提唱する「新しい資本主義」とそれに対する批判は、CSR諸構想の対立の再演と位置づけることもできる。そのことを明らかにするには、「新しい資本主義」というネオロジズムをいったん忘れて、CSR構想に還元していく必要がある。以下ではCSRを消極的CSR、戦略的CSR、公益的CSRの3つに分けて、「新しい資本主義」を巡るこれまでの対立点も明らかにしたい。
表1はCSRの諸構想の立ち位置を示したマトリックスである。横方向は組織の目的がどのように位置づけられるかの区分で、縦方向はステークホルダーへの配慮の程度を示すものである。マトリックスの右上にある戦略的CSRはステークホルダーに積極的に配慮しながら利潤追求を唯一の目的とするものである。横方向は効率性の濃淡を、縦方向は公平性の濃淡を表していると見ることもできるため、戦略的CSRは公平性に一定の配慮をしつつ効率性を追求するものといえる。この3類型は筆者独自の分類であるため、それぞれについて簡単に解説していこう(詳しくは拙著『CSR活動の経済分析』を参照されたい)。

(1)消極的CSR

マトリックス右下にある消極的CSRはステークホルダーへの配慮を法令順守に限定するビジョンである。利潤追求を唯一の目的とする点は戦略的CSRと同じだが、会社を「株主の所有物」と捉える点が大きな特徴である。このビジョンの下では、会社が制約を受けるのは「法令の制限内において」という条件しかありえず、こうした負担の配分を引き受けることが社会的責任であると判断する。地球温暖化問題を例にとると、政府が温室効果ガス排出量に見合った環境税を企業に課すとともに、そこで得られた税収を気候変動対策や被害者への補償に充てることで外部不経済の内部化を目指せばいいという含意である。
この例から明らかな通り、消極的CSRで中核的役割を担うのは問題の発生を予測して負担配分を認定する「全能で強力な政府」である。対照的に、企業は環境税を所与として最適化行動を取る単なる仲介者でしかない。環境やステークホルダーへの外部不経済は規制や契約によって内部化されるので、取締役は株主利益の最大化に全精力を傾ければよく、ステークホルダー・ダイアログなどの活動は迂遠で有効性が低いものと判断される。経済学者のミルトン・フリードマンは、「企業の社会的責任とは利潤を増やすことだ」という有名なコメントを1970年に残したが、消極的CSRのビジョンは剥き出しの利潤追求(doing well)である。岸田首相は「新自由主義」を批判して「新しい資本主義」を提唱しているが、CSR諸構想の対立という文脈で位置づけると、消極的CSRへの異議申し立てと捉えることができる。
上で挙げた環境税が好例だが、フリードマンのような消極的CSRの支持者は、政府の問題解決能力を不当に高く見積もっている。外部不経済の解消という面倒な仕事を「お上まかせ」にしておきながら、小さな政府を旗印に掲げて「お上」の非効率性を叩くフリードマンの姿勢は、親に甘えながら親を馬鹿にして喜んでいる反抗期の子供と変わらないが、このような虫のいい依存体質を別にしても消極的CSRが依拠するロジックには問題がある。なぜなら、「お上」の役割を期待する国家、なかんずく米国のような超大国がグローバルな問題の解決に向けて指導的な役割を果たすことを放棄しているからである。トランプ前大統領のパリ協定離脱のように、地球温暖化問題の解決に当たっては、国家の機能不全や超大国のソフトパワー低下に起因する「諸国家の失敗」と呼ぶべき厄介な高次の問題が表出する。卓越した政府の力で「市場の失敗」が解決されると信じる消極的CSRに対し、戦略的CSRと公益的CSRは市民や企業の力で問題解決を試みるため「諸国家の失敗」に対して免疫力がある。以下ではこれらの中身についてみていこう。

(2)戦略的CSRと公益的CSR

「法令を順守して利潤を最大化することが企業の社会的責任である」という消極的CSRのビジョンは、「目的が手段を正当化する」と考える「勝者の正義」の発想に近いが、同じ目的を達成するにしても他者の自由を制約しない手段があればそちらの方が望ましい。CSR活動が利潤創出に貢献することを正当化根拠として、法令順守にとどまらない責任実践に取り組む類型を戦略的CSRと呼ぼう。消極的CSRが志向する剥き出しの利潤追求(doing well)と対比するなら、この類型はステークホルダーへの配慮を通じた利潤追求(doing well by doing good)といえる。
資産計上されない研究開発支出が複数年度にわたって利潤を引き上げるように、戦略的投資とみなせるCSR活動がある。一つの有力な考え方は、CSR活動が製品差別化戦略として機能するというものである。例えば、優れた環境経営を行う企業は消費者のロイヤリティを高めるだけでなく、当該企業のエコプロダクツに高い値段を払ってもよいと思う利他的・向社会的な消費者を惹きつける可能性がある。フェアトレードやエコラベル製品の支払容認額は、そうでない製品と比較して16.8%高いと指摘するメタ分析も存在する。
消極的CSRと戦略的CSRは利潤への貢献という帰結主義的考慮によってそれぞれのビジョンを正当化するが、「正しいCSR」は帰結のみによって決まるものではないと考える論者もいる。例えば、「資源枯渇や地球温暖化の形で将来世代にツケを回すべきではない」とか、「絶対的貧困で苦しんでいる人々を助けるべき」という判断は、それ以上正当化できなくとも否定しがたい道徳的直観である。戦略的CSRと同様に法令順守にとどまらない責任実践に取り組みながらも、それらを利潤と並ぶ目的に掲げるのが公益的CSRである。換言すると、善行(doing good)と呼ぶに値する過重な自己犠牲を実践しようとするのが公益的CSRである。

3. 「新しい資本主義」を巡る対立

岸田首相が提唱する「新しい資本主義」は消極的CSRへのアンチテーゼであることは明らかだが、それが志向するのは戦略的CSRだろうか、それとも公益的CSRだろうか。「岸田首相は『会社は株主のもの』主張にメスを入れられるか」と題した『論座』の記事(2021年11月10日)によると、アライアンス・フォーラム財団代表理事の原丈人氏が首相の知恵袋になっており、同財団の年次大会でビデオ挨拶した首相は「『(新しい資本主義)実現会議』では原さんが説く公益資本主義の理念を実現したい」(丸括弧部分は筆者挿入)と語っていたという。原氏は2009年に『新しい資本主義』、2017年に『「公益」資本主義』という新書を刊行しているため、首相の「新しい資本主義」は公益的CSRを志向していたと推定できる。2020年刊行の著書『岸田ビジョン』でも、「『儲かる』ことが、政策の目的ではない」と述べた後、儲けた収益が「様々な関係者の『幸せ』につながらなければ意味がありません」と言及している。市場関係者はこうした公益重視の姿勢に社会主義の匂いを嗅ぎ取り、「新しい資本主義」を批判してきたということだろう。ここでの論点は公益的CSRの是非である。表1から明らかな通り、公益的CSRは利潤追求が唯一の目的でなく、環境・社会問題の解決も目的に掲げる。公益的CSRの是非は「会社は利潤以外の目的を追求できるか」という問いに還元できる。実は、似たような論争は米国でも存在した。
会社法学者のスタウト教授(コーネル大学)は、『株主価値という神話』と題した2012年の著書の中で、「米国会社法は、公開会社の取締役に株価や株主利益の最大化を求めておらず、これまでも求めてこなかった」と言及し、株主利益の追求は経営者の選択の問題であって法的要求事項ではないと主張した。これに対し、デラウェア州最高裁判所長官だったストライン氏は、同州の衡平法裁判所で争われたeBay事件を引用しながらスタウト教授に反論した(Wake Forest Law Review第50巻3号)。事件の概要は以下の通りである。クラシファイドサイトを運営するcraigslist社の創業者であった被告のクレイグ・ニューマークは、サイトを有料化して株主利益に貢献することよりも、サイト利用者が属するコミュニティの便益を大事に考えていると認めていた。事件を担当したチャンドラー裁判官は、「営利法人の形態を選択した以上、craigslist社の取締役らは、その形態に伴う信認義務や基準に拘束される。その基準には、株主利益のため会社の価値を促進する活動が含まれる」と判示し、少数派株主による支配権獲得の可能性を削ごうとライツプランを採択したニューマークら取締役の信認義務違反を認めた。ストライン氏は当該判決をCSRの議論に当てはめ、従業員・コミュニティなどステークホルダーへの配慮を株主利益の手段としてではなく、それ自体目的として扱っていることを「認めた」場合、少なくともデラウェア州法の下では取締役の信認義務違反が認定されると指摘した。表1に関連づけると、利潤追求の「手段」として戦略的CSRに訴えることは許容されるが、会社の「目的」を勝手に再定義して社会的利益も追求する公益的CSRは、上場会社のような営利法人では許容されないという含意である。eBay判決で用いられたロジックは、「不公正発行」を判断する際に用いられた国内の判例法理(主要目的ルール)とも共通点があるため、同様の当てはめが可能であろう。

4. 右でも左でもない「第三の道」

以上から明らかなように、岸田首相の「新しい資本主義」とそれへの批判は、米国で起こった論争を周回遅れでなぞったものである。残念なことに、後発のメリットがあるにもかかわらず、日本における論争は米国のそれの劣化版となっている。上で引用したストライン氏は、営利法人が利潤追求をあからさまに「拒否」することは信認義務違反であると指摘したが、戦略的CSRや公益的CSRの存在価値は否定していない。米国では公益創出を目的とするベネフィット・コーポレーションという法人形態があり、アウトドア用品で有名なパタゴニア社はこれを採用している。営利法人が公益CSRを追求したいのであれば、「定款を変更してこのような法人形態を選択すればいいではないか」というのがストライン氏のメッセージであった。
日本の右の人々は、「株主vsステークホルダー」という単純な二項対立図式を描き、ステークホルダー重視を掲げる「新しい資本主義」に「社会主義」という烙印を押し続ける。宮川努教授(学習院大学)が著書『生産性とは何か』で明らかにしているが、日本企業がoff-the-job trainingにかけた費用の対GDP比率(2005-2012年平均)は0.1%と、徹底した個人主義が称揚されている米国(同2.1%)と比べても著しく低い。「新しい資本主義」は明確な像を結んでいないが、先進国の中で立ち遅れた人材育成をテコ入れしようという政策であれば社会主義という指摘は当たらないだろう。
左の人々も論点を単純化する点は右と一緒で、利潤追求を「株主資本主義」と批判するばかりである。「戦略的CSRではステークホルダーへの配慮が利潤追求の『手段』になってしまう」と悲憤慷慨(ひふんこうがい)するが、それを「目的」にするための方策を提案することは稀である。仁政を要求する政治の見物人(客分)にとどまっている点だけ見れば、彼らが批判するミルトン・フリードマンと同じである。左の人々が本当に公益を目指したいのであれば、ベネフィット・コーポレーションのような法人形態(新しい革袋)の実現可能性を検討して、「悪法」是正に向けた国民運動をすべきである。そうした努力を怠ってネオロジズムを繰り出すだけにとどまれば、公益資本主義なるものは未完のまま流産するだろう。
国内の論争のように、「私益(doing well)vs公益(doing good)」という二項対立にとどまっていては、ステークホルダーを包摂しながら利潤を追求する第三の道(doing well by doing good)は可視化されない。評論家の與那覇潤氏は2018年刊行の著書『知性は死なない』の中で、「コミュニズムとネオリベラリズムの統一戦線―いわば「赤い新自由主義」(red neo-liberalism)だけが、真に冷戦が終わったあと、きたるべき時代における保守政治への対抗軸たりうる」と指摘する。「赤い新自由主義」は右でも左でもない「第三の道」で、戦略的CSRに対応する立ち位置であると筆者は解する。これからの課題は、コミュニズム(與那覇氏は「共産主義」でなく「共存主義」と訳すべきであると主張する)とネオリベラリズムの弱いところを補強して両者を止揚させていくことである。
2006年に発足して金融機関の間で広がりをみせている責任投資原則(PRI)は戦略的CSRと親和性が高い。PRIは、「私たちは投資分析と意思決定のプロセスにESGの課題を組み込みます」など6原則の実行を署名機関に求めているが、その最終目的は「受益者のために長期的な投資成果を向上させること」としている。すなわち、PRIが目指すのは、高邁な自己犠牲でなく帰結主義的考慮に基づく包摂である。戦略的CSR(赤い新自由主義)が実を結ぶには、社会を創り上げるこのような行動が必要である。
2022年6月7日に公表された「新しい資本主義」の『実行計画』では、「新しい資本主義は、もちろん資本主義である」という文言が添えられている。当初のような公益重視から「第三の道」に軸足を移すという宣言かもしれない。もしそうであるならば、「幸福」のような非金銭的価値を『実行計画』でことさら強調すべきでない。幸福は個人レベルではそれ自体が目的となるが、企業経営に持ち込むと戦略的CSRと公益的CSRの線引きを弛緩させてしまう。私益と公益の二兎を追うという意気込みはわかるが、それらが対立したときにどちらを優先させるかが重要なのである。岸田ビジョンは優先順位が振り子のように揺れ動くため国民を混乱させる恐れがある。問題はこれに留まらない。国家―あるいは、新しい資本主義実現会議のような「令外官(りょうげのかん)」―が幸福を高唱した場合、公定された「理想的な生き方」へ向けて国民を陶冶(ナッジ)する悪しきパターナリズムを生み出す契機となる。

5. 日本企業の課題

最後に歴史を振り返って日本企業の課題を指摘したい。第2次近衛内閣で閣議決定された『経済新体制確立要綱』(1940年)は、企画院の原案では、企業の目的を「利潤」から「生産」へ転換することが強調されていた。これに不満を持った経済団体は、自由主義経済の「弊(へい)ヲ矯(た)メ」ることには理解を示しつつも、「営利思想ノ排除ハ必ラス企業ヲ萎縮セシメ生産ヲ減退セシメ施テ国家ノ租税収入ヲ激減セシムヘシ」と反論し、「行政機構ノ整備統合」と「吏界ノ気風ヲ刷新」することが先決だと主張した(原文表記は東京大学社会科学研究所編『戦時日本経済』所収の柴垣和夫論文から引用)。「国家目的」という言葉が猖獗(しょうけつ)を極めた時代にあって、財界が「経済新体制(利潤統制)」を激烈に批判したことは注目に値する。いまの日本企業の課題は、振り子のように揺れ動く「新しい資本主義」に対して民間の創意と責任を説く経営者の不在にあるように思われる。

著者プロフィール

遠藤 業鏡 (えんどう かづみ)

日本大学経済学部 教授

1973年生まれ。東京大学経済学部卒、同大学院経済学研究科修士課程修了、学習院大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。日本開発銀行(現・株式会社日本政策投資銀行)入行後、中曽根平和研究所主任研究員、広島大学大学院社会科学研究科客員准教授などを経て2022年4月から現職。著書に『CSR活動の経済分析』(中央経済社、2020年)がある。