ビジネスと人権・人的資本に関する課題と今後の取組み ~投資家の視点からの示唆~
2023年8-9月号
1. はじめに
世界的に脱炭素化に向けた動きが加速するなか、ESG投資においてこれまでは「E(環境)」に関する取組みが中心であったが、昨今徐々に「S(社会)」領域に対する注目度が高まってきている。中でも「人権」及び「人的資本」はESG投資の「S(社会)」領域における主要なテーマであるが、現状日本では双方に関する議論は個別に展開されている印象が強く、関わるステークホルダー(利害関係者)の顔ぶれも異なるのが実態といえる。そこで本稿では、企業活動における「人権」そして「人的資本」を取り巻く国内外動向を整理したうえで、投資家の視点で横串を通すことで、ESG投資の「S(社会)」領域において今後日本企業に求められる対応を包括的に整理し、今後の方向性を示唆したい。
2. 人権を取り巻く国内外動向
ESG投資における「ビジネスと人権」とは、企業に対して事業又はバリュー・チェーンにおける人権への配慮を求めるものであり、具体的な項目として、児童労働、強制労働、生活賃金の支払い、差別、結社の自由等が含まれる。2013年のバングラデシュにおけるラナ・プラザビル崩壊事故など、グローバル企業が途上国で強制労働・児童労働、環境破壊などに加担している事例が数多く報告されるようになり、バリューチェーンを含めた人権侵害への責任が問われるようになった(注1)。ビジネスと人権が国際的に浸透する大きな転機となったのは、2011年に策定された「国連ビジネスと人権における指導原則(以下、UNGPs)」である。UNGPsは、企業が自社の事業上のみならず、サプライチェーン上で生じる人権侵害についても責任を負うとし、人権リスクを抑えるための具体的な対応として、方針によるコミットメント、人権デューデリジェンス(以下、人権DD)の実施、救済へのアクセスという三つの取組みを、ステークホルダーとの対話の基に進めることを求めている。
UNGPs策定以降、企業の人権DDを求める国際的な動きが一気に加速した。欧州では2015年に英国現代奴隷法が成立したのを皮切りに、フランス、オランダ、ドイツなど複数の国が法整備を実施している。2022年には欧州委員会が企業の人権・環境デューデリジェンスを義務化する「コーポレート・サステナビリティ・デューデリジェンス指令案(CSDDD:Directive on corporate sustainability due diligence)」の草案を公表、2023年6月に欧州議会の賛成多数にて承認され、今後理事会での審議が開始される予定だ(注2)。こうした各国・地域の人権DD規制が域内で事業を行う海外企業も適用対象とする場合、日本企業にも拘束力が発生する。財務省の統計によると、当該国・地域への日本の直接投資残高は、対世界投資のシェアの半分を超えている(注3)。
人権侵害を理由とした輸出入規制等措置の導入も増加している。欧州では人権保護を目的とする輸出管理規則が2021年に採択されたほか、米国で2022年に「ウイグル強制労働防止法(UFLPA)」に基づく輸入禁止措置が施行され、中国新疆ウイグル自治区が関与する製品の輸入が原則禁止されることになった。このように人権リスクに関するさまざまな法的枠組の策定が国際的に進み、日本企業にも影響を及ぼすようになってきている。
国内では、日本政府が2020年にUNGPsを踏まえた国別行動計画を策定、2022年には「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を発表し、企業による人権DDの導入推進に向けた具体的な指針をまとめている。一方、本ガイドラインはあくまで企業の自主的取組みを推奨するものであり法的拘束力を持たないため、より実効性を高めるために日本国内における人権DD義務化を求める声が上がっている(注4)。
このように「ビジネスと人権」に関する社会的な関心や規制圧力が高まるなか、企業の人権配慮への取組みを格付け化する動きが生まれている。グローバル企業のSDGs達成貢献度を評価するワールド・ベンチマーク・アライアンス(World Benchmark Alliance:以下、WBA(注5))は、企業の人権への取り組みを評価するベンチマークとして「Corporate Human Rights Benchmark:CHRB(以下、CHRB)」を公開し、その評価結果は多くの投資家に判断材料として活用されている。2022年は日本企業22社を含む127社のスコアが発表されたが、日本企業への評価は一部を除き総じて厳しく、日本企業の平均総得点は全体を下回る結果となっている。またWBAはCHRBに加えて、2022年1月に1,000社の中核的な社会指標評価結果をまとめた「社会変革ベースラインアセスメント」を発表。日本企業の79%が人権へのコミットメントを開示する一方で、人権DDの基本的なステップを踏んでいることを示す企業は半数以下であり、特にステークホルダーエンゲージメントの取組みに課題があると指摘している(注6)。
3. 人的資本を取り巻く国内外動向
製造主体の経済から知識労働主体へビジネスモデルが大きく変化するのに伴い、企業価値において従業員が保有するスキルや知識、企業が持つ独自のノウハウや企業文化などといった人的資本が、特に大きな影響を与えるとして注目されるようになった。人的資本では企業の労働力の能力及び経験、イノベーションへの意欲等が評価され、具体的な項目として、労働力の構成、安定性、多様性・公正性・包摂性(DEI)、研修及び能力開発、健康・安全・福利(ウェルビーイング)、報酬などが含まれる。米国では2020年8月に米国の上場企業に対して人的資本の開示を義務化、欧州では人権、人的資本など社会関連項目を含めた企業サステナビリティ報告指令(以下、CSRD)が2022年11月に最終合意されるなど、国際的に人的資本情報開示にかかる規制や指針の策定が進められている(注7)。
日本では2020年9月に「人材版伊藤レポート」が公表されて以降、人的資本の重要性が認識され始めた。2021年の岸田政権の発足以降、日本の新たな成長戦略として「新しい資本主義」が掲げられ、人的資本経営を積極的に推進する動きが強まり、2022年10月には人への投資策を今後「5年で1兆円」へと拡充することが発表された。そして2023年1月、企業内容等の開示に関する内閣府令が改正され、上場企業は2023年3月期より有価証券報告書において従業員の状況として「女性管理職比率」「男性育児休業取得率」「男女間賃金格差」、人的資本にかかる「人材育成方針」「社内環境整備方針」を含めたサステナビリティに関する考え方及び取組みの開示が求められるようになった(注8)。
4. グローバルな社会関連情報開示枠組策定の動き
2023年4月、不平等関連財務情報開示タスクフォース(TIFD(注9))と社会関連財務情報開示タスクフォース(以下、TSFD(注10))が1つのイニシアティブに統合することを発表した。今後投資家、企業、規制当局らと協働し、気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)および自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)との相互運用性を確保する形で、社会関連情報開示枠組の策定を進めるという。
国際サステナビリティ基準審議委員会(以下、ISSB)は気候変動の次に自然資本、人権・人的資本の開示基準策定を進める方向性を表明しており、2023年5月に各アジェンダの優先度に関する協議を開始した。人権、人的資本いずれも企業のリスクと機会に繋がるテーマとして投資家の情報ニーズが高いとしたうえで、双方のトピックにおける重複点及び境界を明確化していく方向性を示している。
既に欧州ではCSRDにおいて、人権と人的資本を統合する形で社会関連のサステナビリティ情報開示規制を定めているが、今後社会関連情報開示枠組の構築がどう進められていくのか、またそれを踏まえて今後ISSBがどのような人権・人的資本関連の開示基準を策定していくのかが注目される。
5. ESG投資の「S(社会)」領域における投資家のアプローチ
上記で述べたような国際的な規制動向に加えて、コロナ禍を経て労働環境が大きく変化し、働き方が多様化したことで、投資家がサプライチェーンを含めた労働慣行や人権配慮を責任投資の柱に掲げる傾向が強まっている。責任投資原則(以下、PRI)は2021-2024年のESG課題として気候変動と並び人権を掲げており、2022年12月に機関投資家による協働エンゲージメントイニシアティブ「Advance」を発足した。日本企業20社を含む250社超の投資機関(総運用資産額約37兆ドル)が参画し、世界のハイリスクセクター企業に対するエンゲージメント活動を開始している(注11)。
サステナブル投資を世界的にリードする蘭資産運用会社のロベコは、人権を気候変動、生物多様性と並ぶサステナビリティ投資の3大テーマの一つに掲げ、取組みを推進している。具体的には、CHRBなどの関連インディケーターや外部のデータソースを活用し、人権にかかる国際規範の遵守状況、人権DD実施状況などをチェックし、リスクの高いポートフォリオ先に対してエンゲージメントを実施している。企業の反応に応じて段階的な対応(議決権行使やダイベストメント等)についても検討する。2023年のエンゲージメント注力テーマとして「強制労働」及び「公正な移行」を掲げており、強制労働については特にアジアのITセクターを中心としてエンゲージメント先の選定を進めている。
ノルウェー中央銀行の投資運用部門で、ノルウェー政府年金基金の運用を担うNorges Bank Investment Management(以下、NBIM)は自社の従業員やバリューチェーン上で働く労働者に投資する企業が長期的に最も成功するとして、「人権」「子供の人権」「人的資本」にかかるサステナビリティ投資方針を策定。国別エクスポージャー2位(注12)である日本に対しては、企業の価値創造及びマクロ経済的必要性の高さという観点から、多様性、特にジェンダー格差を重要課題として捉えている。東証1部上場企業のうち、女性取締役が1名以上いる会社は増加する一方、社外取締役が中心であり役員や経営陣の男女比の改善には大きな進捗がないと指摘。2022年12月にアジア・コーポレートガバナンス協会(ACGA)が金融庁に対して送付した、「東証プライム市場上場企業取締役会におけるジェンダー・ダイバーシティ推進の提言(注13)」への支持を表明した(注14)。
国内投資家の間では、人的資本に関する指数を組み込んだ商品開発の動きがみられる。野村アセットマネジメント(株)は2019年3月から「野村日本働きやすい企業戦略」として、特に平均給与・有休取得率・女性管理職比率を重視した運用を実施している。同ファンドは運用の成果が評価され、(株)格付投資情報センター(R&I)が選定する「R&Iファンド対象2023」確定給付年金部門を受賞した。日興アセットマネジメント(株)は、2021年1月に「日本株人材活躍戦略」を設定しており、人材投資効率・労働分配率・経営者予測慎重度に係る指標を用いて「人材活躍企業」を選定している。ニッセイアセットマネジメント(株)は2008年から国内株式のESG評価を実施。ESG評価は開始以来、東証株価指数(TOPIX)をアウトパフォームしているが、ESG投資の中でもS(社会)のスコアがE(環境)やG(ガバナンス)に比べて最もアウトパフォーマンスに関連するという結果を示している(注15)。
6. おわりに:人権と人的資本を統合した取組推進を
このように、人権・人的資本は関わるステークホルダーの幅、リスク・機会としての捉え方が異なるものの、ベースとなるのは企業と人との関わりであり、いずれも投資家の関心が高く情報開示が求められている点で共通している。現状日本においては、「人権」と「人的資本」に関する議論は個別に展開されている印象が強いが、国際的な潮流を踏まえると、両者を統合する形で包括的に対応し、情報を開示していく姿勢が求められていくだろう。
「人権」に関してはサプライチェーンを含めた国際規範の遵守及び人権DDの実施がポイントとなる。具体的には、「国際人権章典(注16)」や「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言(注17)」等の国際基準に則り、人権リスクの高い地域・事業を特定し、課題が見つかった場合には是正及び予防措置を講じるといった一連の対応を、ステークホルダーとの対話を通じて進めていく必要がある。
「人的資本」に関しては、労働人口減少により人材の採用、そして引き留めが益々困難になっていくなかで、成長領域への人材配置やイノベーションを創出する高度人材確保に向けて、雇用の多様性や外部流動性を高めていくことが重要だ。一部の先進企業において取組がみられるような、社員が主体的に新たな事業に挑戦することを支援するキャリアオーナーシップ育成の仕組作りも有用と考えられる。
また海外の機関投資家は企業の価値向上に資するイノベーションドライバーという観点から、多様性を優先的な投資方針に含める傾向が強まっている。特に日本においてはジェンダーギャップに関する部分は海外投資家からかなり厳しく見られており、それを受け日本政府の施策も動き出した。2023年6月に内閣府は「女性活躍・男女共同参画の重点方針2023」(女性版骨太の方針)原案を公表、東京証券取引所の「プライム市場」に上場する企業に対し、2025年を目途に女性役員を1名以上選任、2030年までに女性役員比率30%以上を目指す規定を設けるための取組を進めるとしている。今後ジェンダーギャップ是正は努力目標ではなく、上場ステータスを維持するための条件となる可能性があり、企業はより踏み込んだ取組みと情報開示が必要になる。
どう人を惹きつけ、人を活かす職場にするか、それは企業の競争力を向上させるために重要であるが、結果として差別のない均等な機会の提供、個々にとってより働きがいのある雇用環境(ディーセント・ワーク)の実現に繋がる。「人権」と「人的資本」は根底で繋がっており、TSFDやISSBといったグローバルな社会関連情報開示枠組を策定する動きが既に始動している。日本企業はその点をしっかりと認識したうえで、人権と人的資本を統合した取組み、そして情報開示を進めていくことが求められるだろう。
(注1)2013年、バングラデシュのダッカ近郊で商業ビル「ラナ・プラザ」が崩壊し、テナントとして入居していたグローバルアパレルブランドの下請け工場の労働者を中心に千人超の犠牲者を出した。ずさんな安全管理、劣悪な労働環境において発生した世界最大級の労働災害とされ、関与していたグローバルアパレルブランドに対し批判が集まった。
(注2)https://multimedia.europarl.europa.eu/en/webstreaming/press-conference-by-lara-wolters-rapporteur-on-corporate-sustainability-companies-to-address-impact_20230601-1400-SPECIAL-PRESSER
(注3)財務省、通商白書2021
(注4)「人権デュー・ディリジェンス義務化立法及びその他の人権デュー・ディリジェンスの取組みを促進するための各種立法等の導入を求める共同書簡」
https://hrn.or.jp/wpHN/wp-content/uploads/2023/04/b274987617187d7c3f9e20ac35983e9f.pdf
2023年5月17日に「人権外交を超党派で考える議員連盟」が、2023年末までの人権デューデリジェンス義務化の導入について政府に正式な提言を実施。
https://jinken-gaikou.org/
(注5)2018年、国連財団、英保険会社Aviva Investors等により設立。SDGs達成への企業の貢献度を測るベンチマーク評価を実施、ランキングは一般に公開される。PRI等主要機関ともパイプを持つ。
(注6)https://assets.worldbenchmarkingalliance.org/app/uploads/2022/05/Evidence-from-Japanese-companies-assessment-on-Human-Rights-Due-Diligence_JP.pdf
(注7)『日経研月報(2022年10月号)』「人的資本の情報開示に関する国内外動向~海外動向を踏まえた日本の議論との対比~」参照。
(注8)https://www.fsa.go.jp/policy/kaiji/sustainability01.pdf
(注9)不平等から生じる影響の両面を管理・測定するためのガイダンス、指標および目標を提供するための組織として、2021年9月に国連開発計画(UNDP)を含む暫定事務局が組成。
(注10)2022年6月、職場やサプライチェーンでのダイバーシティに取り組むイニシアティブBusiness for Inclusive Growth(B4IG)が社会的指標に関する開示の枠組みを検討する組織として提案、OECDと協働し設立準備を進めていた。
(注11)2023年6月5日時点の情報。
https://www.unpri.org/investment-tools/stewardship/advance
(注12)NBIMの日本への投資額は14.7兆円、内8.7兆円は日本企業1,515社の株式に投資(2021年末)。
(注13)コーポレートガバナンスコード及び東証上場審査基準において女性取締役比率30%達成を義務付けること等を提言している。
https://www.acga-asia.org/pdf/japan-gender-diversity-letter-jp-2022
(注14)https://www.nbim.no/en/publications/consultations/2022/gender-diversity-on-company-boards/
(注15)https://www.nam.co.jp/company/responsibleinvestor/pdf/susreport2208.pdf
(注16)法の下の平等、身体の安全、思想・良心・宗教の自由、表現の自由、集会・結社の自由、生存権などを含む「世界人権宣言」と、これを条約化した二つの国際人権規約(「市民的及び政治的権利に関する国際規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」)を総称したもの。
(注17)ILO(国際労働機関)が定める労働における基本的原則及び権利。「結社の自由及び団体交渉権」「強制労働の禁止」「児童労働の実効的な廃止」「雇用及び職業における差別の排除」「安全で健康的な労働環境」が含まれる。