『日経研月報』特集より
これからの社会における健康経営とは
2024年2-3月号
(本稿は、2023年10月20日に東京で開催された講演会(オンラインWebセミナー)の要旨を事務局にて取りまとめたものである。)
1. 健康経営と人的資本経営の拡がり
2. マクロ視点から考える企業経営と人資本
3. ミクロ視点から考える人資本
4. ディスカッション
樋口 本日、コーディネーターを務めさせていただきます。私から健康経営と人的資本経営の拡がりについてお話ししたうえで、平野さんからは、マクロ視点から考える企業経営と人資本をテーマに健康経営資本とは何かについて、次に、荒尾さんからは、ミクロ視点で、働く人から見た人資本の変革についてお話しいただきます。その後、3人でディスカッションを行います。
1. 健康経営と人的資本経営の拡がり
健康経営の深化
樋口 まず、「健康経営」とはNPO法人健康経営研究会が2006年に生み出した言葉で、登録商標されています。経営という言葉の通り、従業員の健康を経営戦略として捉えることがとても大切な視点です。2021年7月、健康経営を経営面からさらに深く考えて、「人という資源を資本化し、企業が成長することで、社会の発展に寄与する」という概念として再定義しました。
経営者の倫理観という一番の土台にある経営戦略に基づいて、企業が、従業員の労働安全衛生や健康づくり、働きやすさ、働きがい、そして生きがいを促進するために人への投資を行い、その結果、企業の成長と社会の発展を目指すというモデルです。この考え方について、経済産業省が2014年度から「健康経営優良法人」や「健康経営銘柄」制度を通じて支援することで、社会に健康経営の概念が広く普及しました。初年度には493法人の申請件数があり、2022年度には3,168社が申請し、2,676社が認定を受けています。認定制度には2016年度から中小規模法人部門が加わり、2022年度には中小企業だけで1万4,000社を超える認定件数に上りました。このように健康経営は、大企業はもとより中小企業にも広がりをみせており、特に上場企業にとっては当たり前の経営になっています。
人的資本経営
また、「人的資本経営」という言葉も生まれました。人的資本経営の考え方は、人材版伊藤レポート2.0(経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書」2022年5月)が基になっています。
同レポートでは、3つの視点として、経営戦略と人材戦略の連動、As is⇔To beギャップの定量把握、企業文化への定着が挙げられており、また、5つの共通要素として、動的な人材ポートフォリオ、知・経験のD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)、リスキル/学び直し、従業員エンゲージメント、時間や場所にとらわれない働き方が挙げられています。同レポートに少し補足するとすれば、図2左側の「組織」を取り巻く社会的な環境として、市場環境の構造変化やデジタル化の進展があり、図2右側の「多様な個人」の観点で見たときに、価値観の多様化が企業経営にどう影響するのかが重要となります。この個人としての人資本については、後で荒尾さんにお話しいただきますが、まず平野さんから、事業戦略としての健康経営について、特に企業と社会の関係性の観点からお話しいただきます。
2. マクロ視点から考える企業経営と人資本
健康経営資本の考え方について
平野 日本企業には長寿企業が多く、社歴が100年を超える企業は約2万7,000社もあり世界でダントツの1位です。長寿企業は、時代の変化とともにイノベーションを繰り返してきたわけですが、それを支えてきたのはやはり「人資本」であり、日本には元々、人の知恵や人の資本を活かす力があると考えています。2004年の当初は健康経営が企業戦略として位置付けられていたのですが、当時はまだ、健康と経営をどう関係付けるのか難しい面があり、健康管理以外の側面が定義されていませんでした。その後、2021年に健康経営の深化版の定義の中に健康管理以外の側面が取り込まれ、「人という資本を資本化し、企業が成長することで社会の発展に寄与する」という形に改訂されました。最近の人資本のキーワードは、ヒューマンリソースからヒューマンキャピタルへ、別の言い方では、ヒトはコストではなく資本であるという考え方に変わってきています。このため、マネジメントには管理型のマネジメントだけではなく「人財」マネジメントが必要になってきています。
こうした流れを踏まえたうえで、健康経営資本のカギとなる視点をいくつかお話しします。1つ目は、社会変化に人の意識と行動が追い付いていないことです。大きな社会の変化として挙げられるのが、デジタル化の進展です。健康経営の概念がつくられた20年前には、ITによるパラダイムシフトが起こりました。その後個人端末の時代となり、コミュニケーションスタイルが変わりました。これは分散化時代の幕開けといえます。それまでは、権威のある機関が情報を集中管理することで信頼を形作っていましたが、分散化時代に入り、信頼は個々のやりとりによって構築される時代に変わってきています。人の意識と行動は、この大きな社会の変化に追い付いているとはいえません。
2つ目の視点は、人口減少問題です。人口問題研究所によると、25年後には日本の人口は1億人を切ると推計されています。現在と比較すると、約2,500万人がいなくなるということです。2,500万人とは現在の東京都の約2倍の人口で、経済にも非常に大きな影響を与えます。マクロ経済的にみれば、労働力が減り生産力が減るということになります。一方で最近では、多様な働き方として副業や兼業が注目されています。
3つ目の視点は、企業評価の変化です。企業評価といえばまず時価総額が思い起こされるように、これまでは株主との関係であるIR、Investor Relationがカギとなっていました。しかしこれからは株主だけでなく、社会に支えられることが重要になってきており、Trust Relation(TR)という言葉も出てきています。この背景には、持続可能な社会づくりや循環型社会の構築が求められていることがあります。
4つ目の視点は、戦略目的と戦術の関係です。日本の企業には、戦略目的なしに戦術だけで進む会社が多く、健康経営についてもそうしたやり方で取り組む企業が多くみられます。しかし健康経営も経営戦略の一つですので、まず、この会社は何のためにあるのか、そのために何をするのか、といったことが明確にされていることが重要です。それらの戦略を実現するために、戦術いわば「行動シナリオ」が必要で、その行動シナリオをつくって実行するのがチームであり、そうしたチームづくりが、今、日本で最も求められているのではないかと考えます。
3. ミクロ視点から考える人資本
人生100年時代における生き方の再設計
荒尾 人生100年時代といわれるなか、私たちが生き方を再設計する時代になっています。今までは、学校を卒業し、社会に出て一生懸命働いて、定年後は悠々自適な老後を送るというのが一般的なプランニングでしたが、これからは、学校を卒業しても学びが終わるわけではなく、複数の会社で働きながら、マルチステージをこなしていく形が多くなっていくものと思われます。また、終身雇用が前提の会社では、働く人の健康は企業が管理するという発想でしたが、各人がマルチステージの中で働いていく時には、健康は自分自身の資産として自分で管理することが必要になってきます。ここで重要になるのは、人や社会との「共創」です。つまり、社会的ニーズや意義を感じる仕事ができるか、ということです。
実際コロナ禍を経て、働き方、生き方に大きな変化がみられます。これまでは、仕事と暮らしの2つのバランスを重視した「ワークライフバランス」がテーマでしたが、これからは、家族や友人との時間や、趣味の時間、学び直しの時間といったいろいろなテーマの中に仕事を位置付けて考える「ワークインライフ」という考え方になりつつあります。現状の日本は、いきいきと働いている人の割合が世界的にみて非常に低いというデータがありますが、やる気をもった人材が企業で活躍し、その結果、企業も成長し、より選ばれる会社になっていくことが、企業が「ワークインライフ」にシフトしていくことの意義であると考えています。人口減少社会において新しい価値をつくっていくためには、ワークインライフで人々が自分のパフォーマンスを高めて、イノベーションに関与していくことが必須です。兼業や副業ができる会社が増えてきましたが、例えばフリーランスで働いている人たちが大企業のパートナーとなり一緒に働く、ということも当たり前の時代になってくると考えています。
これからの人的資本投資に関する変革の方向性
健康経営の考え方は、人材版伊藤レポート2.0で示されている人的資本投資の変革の方向性にも非常に通じるものがあります。
変革の方向性として、人的マネジメントの目的が大きく変わってくるということです。これまで、管理の対象でありコストとして捉えられてきた「人的資源」が、新たな価値やイノベーションをもたらす「人的資本」として投資の対象になっていきます。それに伴い、人材戦略を会社の経営戦略と常に連動させていく必要があります。また、社員と企業の関係性も変化していきます。これからは社員が力を発揮するために、社員の個の自律、活性化を企業が支援する一方で、多様でオープンなコミュニティの中で、企業と働く人がお互いに選び選ばれる関係を共創という形でつくっていく必要があります。
働き方改革と健康経営
昨今よく話題になる「働き方改革」の目的は、仕事の効率化を図ることと、働く人の質を高めて人財資本化を最大化することの2つに整理できます。特に後者については、健康経営の考え方として提示されている健康と環境の2つの軸で見ることが大切です。土台になるのは、身体と心の健康という「健康軸」で、居心地やコミュニケーションという「環境軸」も非常に重要になっています。
健康軸は、病気の予兆を事前に防ぐ、いわばマイナスの状態にある人をゼロの状態に持っていくことがポイントです。一方、環境軸ではマイナスがゼロになったものをさらにプラスの状態に高めていくために、職場のコンフォート(居心地)を改善するとともに、職場におけるコミュニケーションを活性化することによって、心身ともに健康でいきいきとしている人財をつくることがポイントです。
人を主体とした経営マネジメントの変革「HCX:ヒックス」
これからの働き手の中心となる若い世代が企業に求めていることは、自分自身も成長しながら、社会との関わり、意義を実感できるということです。実際に、社会や環境の変化から、働く人の意識や行動にも変化が起き始めています。私たちは、企業にとっても働く人にとっても今後必要となる、人を中心とする企業経営のあり方と人的資本の変革を、Human Capital Transformation:HCX(以下、ヒックス)と呼び、人財の価値をさらに高めていくことを目指しています。日本の最大の資源は人であり、人を中心とする企業の経営が企業と働き手にとって当たり前の経営になるように、皆様と一緒に考えていければと思います。
4. ディスカッション
樋口 今、荒尾さんからヒックスというキーワードが出てきました。働き手の変化に対して企業は具体的にどのようなことを考えるべきか、平野さんの考えをお聞かせください。
平野 最近企業からの相談で多いのは、これから人事は何をすべきかということです。それに対して私は「人資本の配分」と答えています。今までの人事は、成績評価を中心に人的資源を管理してきましたが、これからの人事のメインの仕事は人資本の配分となると、部署名も人事部ではなくなるかもしれません。
樋口 人事部から人財戦略部へ、ということですね。荒尾さんには、引き続きヒックスをもう少し掘り下げていただけますか。
荒尾 自治体と仕事をすることが多いなかで、自治体のどの政策でも「共生」という言葉がキーワードになっています。共生の視点から考えた場合、社会も会社もいろいろな人の集合体であり、もちろん個性も能力も一人ひとり異なります。今まではどちらかと言うと、会社のスキームに個々人をあてこむという感じでしたが、これからは、それだけでなく、その人の能力と会社の目指す方向をうまく適合させるやり方をつくっていくことが重要になってきます。そのためには、会社はまず従業員を知ることが必要です。会社は、社員がどういうことに関心がありどんなことにチャレンジしたいと思っているのか、また、社員の隠れた能力についても意外に知りません。社員の潜在能力を引き出すためには、コミュニケーションが重要だと思います。
樋口 個々の社員の能力や強みをいかに資本化していくか、「タレントマネジメント」の視点でもありますね。また、健康経営の中で「環境軸」が生まれてきた背景について、平野さんから改めてご説明いただけますか。
平野 健康経営の中で「健康管理」という言葉は非常に馴染み深く、身体と心の健康すなわち「健康軸」の中で整理できます。つまり、課題解決型で身体と心の健康を論じることができます。一方で、健康経営は資本の話でもあるので、いかに資本をつくるかという軸を設ける必要があり、それが「環境軸」です。人が気持ちよく働いて力を発揮するためには居心地の良さやコミュニケーションが重要です。睡眠を例に挙げると、課題解決型の「健康軸」で考えると8時間寝なければいけないと考えるのですが、環境軸で考えると、朝起きたときに「今日一日頑張るぞ」という気持ちになれたかどうかということです。さらにいうと、環境軸は「創意工夫軸」でもあります。健康軸で課題解決をしても、ゼロには戻りますがプラスにはなりません。プラスにするというのは、資本が活きて利回りが高まる状態ともいえます。ですから会社に求められるのは創意工夫だろうと考え、この環境軸をつくったわけです。
樋口 よくわかりました。それでは荒尾さんから、居心地やコミュニケーションについて、もう少し教えていただけますか。
荒尾 最近の健康づくりでは、良い生活習慣も去ることながら、人と人との繋がりや気持ちよく目覚められるといった「主観」が重要であることが、エビデンスとしても出てきています。一日の多くを働く場の中で過ごすと、仕事仲間とどう過ごすかはトータルの健康にとって実はウェイトが高いのです。このため、健康軸の視点から見ても、居心地とコミュニケーションは重要なのです。
樋口 有難うございます。健康経営が企業戦略そのものであるということで、最後に改めて、平野さんから、戦略と戦術についてご説明いただけますか。
平野 戦略と戦術の関係について、戦略がしっかりしていると、戦術ものびのびと前向きに行けるのですが、戦略があいまいなまま戦術の中のゴールだけが先に決められてしまうと、それを行う人は戦術の選択肢が狭まり「リスク管理」中心となってしまう場合が多いのです。また、戦略が、戦術としてのゴールを持たなければいけないかというと、必ずしもそうではありません。つまり、何のためにどういったことを目指すのかという思想をきちんと掲げてそこに現場の戦術が加わると、それを行う人はのびのび前向きに行動でき、リスク管理中心ではなくなるのです。健康経営での環境軸は創意工夫軸でもありますが、戦術に現場の創意工夫がないと会社は発展しません。
〈質疑応答〉
質問 チームの力が大切だというお話しがありました。企業組織の中では、チーム力は評価しにくい部分があり、促進のための工夫もされていないように思いますが、チームの力を引き出す方策について教えてください。
荒尾 チームの組成の仕方が重要な視点です。どういうテーマでチームをつくるのか、機能としてのチームなのか、あるいは特定の目的を持たせたチームなのかによって、メンバーのコミットの仕方が全く違ってきます。仮に目的がはっきりしない状態でチームをスタートすると、チーム内の連携は難しくなるので、目的となるテーマを明確にすることによって、チーム内の連携力を高めることができると考えています。
平野 チームは、サポーターや応援団がいないとなかなか成長しません。企業評価の観点からも、実はチームの目的に共感してもらえる外からの応援は重要です。
樋口 これから先、特に若い世代の人たちは自分たちが社会にどう貢献したいのかというパーパスが個人でもしっかりしているので、目的を一致させることはやはり大事になります。また、チーム内のタレントマネジメントも重要です。それぞれの強みをいかに繋ぎ、弱みは短所であるだけではなく長所でもあると考えて各人の個性を活かすか、その仕組みをどうつくるかということが、尊くて大切なことなのではないかと考えます。