~コモンズの今日的な意味を求めて~(第1回)

コモンズを巡る旅(第1回)

2022年5月号

酒巻 弘 (さかまき ひろし)

一般財団法人日本経済研究所 専務理事

1. 「コモンズ」との出会い

大経済学者と彼が信頼する医師との会話。「私はこれから勉強をし直して医師になりたいと思う」と大経済学者。すると医師は「おやめなさい。あなたが医学部に合格することにより前途有望な若者が一人不合格になる。そして医者を一人育てるために周りの人々がかける労力のことなどを考えれば、医師として活躍できる期間が長い若者を育てた方がよいことは経済学者であればわかるでしょう」と答えた。その大経済学者とは故宇沢弘文先生であり、答えた医師はそのご息女で、今月の月報の時評をお引き受けいただいた占部先生ご本人だ。宇沢先生はこの父娘のやり取りを、ご自身の白く長い髭を撫でながら、少し嬉しそうに語っておられた(注1)。
今を去ること四半世紀前、私は製造企業向けの融資部門の課長として、金融危機対応の融資業務で多忙を極めていた。そんななかいろいろな偶然が重なり、当時日本政策投資銀行の設備投資研究所の顧問をされていた宇沢先生のご指導により「社会的共通資本」について勉強する機会をいただいた。宇沢先生からは社会的共通資本には自然資本、社会インフラ、そして制度資本があり、制度資本の典型例が冒頭紹介した対話にもあった医療であることを教わった。さらに、自然資本の例として「コモンズ(共有地)」というものがあり、「コモンズの悲劇」といった考え方があることもその時初めて知った。市場とは異なる仕組みで動く社会構造、これが私にとっての漠然としたコモンズのイメージだった。しかし、その時点では金融危機というまさに市場の失敗への対処に追われるばかりで、コモンズについて整理する余裕もないまま頭のどこか片隅に沈殿するに任せていた。

2. 本シリーズの目的:「コモンズ」の今日的な意味を求めて

ところが、21世紀を迎えて金融危機や格差問題、さらには地球環境問題など、市場メカニズムを中心とした資本主義が抱える問題点が指摘されるなかでコモンズが引用されるようになり、私の中でも沈殿していたコモンズが浮上してきて、これを機に考え直してみることにした。とはいえ、日本で歴史的に存在が知られている入会地(いりあいち)はともかくとして、日本でコモンズないし共有地と言われても殆どの方々は馴染みがないのが実情だろう。そこで、本シリーズではまず私自身が英国で出会った3箇所のコモンズを紹介し、英国に現在も残っているコモンズとはどんなところか、というイメージを持っていただきたいと思う。本稿で取り上げる1箇所を含め、合わせて3箇所紹介するコモンズは、コモンズとしての共通点はありながら歴史的な経緯も、現状の活用のされ方もそれぞれ異なっている。その相違はコモンズを取り巻く経済的、社会的な条件が変化し、それに対応することを迫られた(または迫られず、従来からの利用のされ方が維持されている)ことによって生じている。そしてその3箇所のコモンズを巡った後、最終回でコモンズの今日的な意味を考察してみたい。その際に道標としたいのが、2009年にノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムの『Governing the Commons』(Ostrom、1990)だ。
なお、先に触れた「コモンズの悲劇」は生物学者ガレット・ハーディンが1968年に『サイエンス誌』に寄稿したもので、人口増加問題の深刻さを論じることが目的だった。放牧地で家畜を好きなだけ放牧させてしまうと利用が過密になり最終的には牧草が枯渇してしまうという理論をベースにしている。寄稿文の題名のインパクトもあり、コモンズなどの共有システムは必然的に崩壊するという見方につながっていった。これに対して、オストロムは「ゲーム理論」の協調ゲーム(注2)などを援用して、理論的に必ずしも悲劇が起こるとは限らないことを示し、さらに、世界における数多くのコモンズの実例を調査したうえで、現実的にも「コモンズの悲劇」は必然ではない、との結論を導き出したことは予め紹介しておこう。

3. 現在も残る英国のコモンズ①~ウィンブルドン・コモン

現在も英国に残るコモンズとして最初に紹介したいのがロンドン郊外、テニス4大大会の一つとしても有名なウィンブルドンにある都市郊外型のウィンブルドン・コモン(注3)だ。ウィンブルドンはロンドン中心部のシティから南西に約15㎞離れた郊外の住宅地(鉄道で45分~1時間弱)で、ウィンブルドン・コモンはウィンブルドン駅からは少し離れた高台の上にある。便利な郊外の住宅地に隣接した3.465㎢という広大な土地(注4)に、森、雑木林、ヒースの荒野、自然の池、牧草地(現在は放牧はされていない)などが広がり、その中には遊戯場、ゴルフコース、乗馬コース、そして今はウィンブルドン・コモンの歴史を展示する小さな博物館として活用されている風車小屋などがある。なお、自然の中に棲息する動植物は研究対象にもなっている。さらに高台という地形もあってか、新石器時代の狩りの道具や青銅器時代の円形の塚などの遺跡が発見されており、長い歴史があることもわかっている。それでは次に主要な時代区分において、コモンが実際にどのように利用され、また管理されてきたのかを中心にその歴史を振り返ってみよう(注5)。

(1)封建制度下のウィンブルドン・コモン~領主・小作人関係で利用・管理にバランス

封建制の時代、領主が領地を小作人(注6)たちに開放し、彼らが家畜の放牧をし、また燃料となる木材を集めるという利用形態が確立された。その管理に関しては、1400年から1700年頃にかけては所有者である領主がその領地の利用を管理し、乱獲する者に対して罰金を科した。つまり、領主の所有権のもとで領地に存在する資源の利用を小作人たちに開放し、小作人たちもその資源の維持管理に協力するといったように、資源の活用と維持管理のバランスが上手くとれていたと考えられる。

(2)移行期のウィンブルドン・コモン~利用が混雑・多様化し管理が難しく

ところが1700年頃以降になると外部から家畜を持ち込む者が増えてきて、その管理が徐々に難しくなり、1830年頃までには家畜などあらゆる種類の動物でコモンが一杯になってしまう。コモンはまた、乗馬やクリケット、射撃などのスポーツの場としても利用された。さらに軍事演習場としても利用され続けてきたこともわかっている。16世紀にはアーチェリーの練習場として使われ、ジョージ3世(在位1760~1820年)からエドワード7世(在位1901~1910年)までの国王は閲兵のためにコモンを訪れている。それ以外にも1800年代の初期には軍事用ロケットの実験が行われ、1860年に開催された英国ライフル協会発足の会議にヴィクトリア女王(在位:1837~1901年)が出席している。この時期、領主としてもコモンの管理が難しいなか、いろいろな活用のされ方に協力していたことがわかる。

(3)近代のウィンブルドン・コモン~囲い込みの危機を乗り越えて

都市化の波はウィンブルドンの街にも及び、1838年にウィンブルドンの街で最初の鉄道駅が設置されて以降、ロンドン郊外の住宅地として徐々に発展してきた。そして、このウィンブルドン・コモンを有名にする歴史的な事件が起こった。それは1864年にウィンブルドン・コモンの領主であるスペンサー伯爵が約2.8㎢の土地を外から入れないように囲いのある公園とし、また約1.2㎢の土地を建物用に売却することの承認を議会に求めたことから始まる。この領主の動きは、ヘンリー・ピーク准男爵(注7)をリーダーとした地元民の反対に合い、4年間の訴訟の末、スペンサー伯爵は£1200の年金と引き換えに彼の権利を放棄することで合意した。そして1871年に「Wimbledon and Putney Commons Act」が成立し、「Board of Conservators」にコモンを維持・保護する責任が認められ、現在でもその体制が維持されている。

(4)現在のウィンブルドン・コモン~市民による新たな活用と管理

以上の通り、市民によるコモンの新たな活用と管理体制が成立し、それを支えるためにウィンブルドン・コモンを管轄するマートン市の地方税の中には「Wimbledon and Putney Common Conservators」というコモン管理料の項目があり、ウィンブルドン・コモンから一定の距離内に居住している地元住民がその管理料を負担している(注8)。実はコモンはその管理料を負担しなくても、つまり地元住民以外の一般の人々でも自由に入れるが、特に混雑する週末には遠方から車で来訪するには駐車場探しが困難になるため、やはり地元住民の憩いの場としての活用が中心だろう。日本の都市公園や国立公園などのように綺麗に整然と整備されたというよりも、自然の雑木林や牧草地や湿地がそのまま残されたかのように手入れされている。そのため雨の多い冬に林の奥まで入る際にはかなり深い泥濘にはまることも想定し、膝まで覆う長さのウェリントンブーツと呼ばれる長靴を履いている人も多い。日本の整然とした公園と比べると素っ気ない公園だと思っていたが、2020年から始まったコロナ禍により改めてこのコモン、そして一見愛想のない自然の有難さを身に沁みて感じることとなった。英国での厳しいロックダウン生活では基本的に外出は禁止で、1日1回程度の運動のための外出と食料など必需品の買い物のための外出のみが認められ、あとは在宅勤務でずっと家にいるため、実際に会って会話をするのは家族のみ、という生活が続いていた。そんな非社会的な生活環境を強いられている人々を、「Wimbledon and Putney Commons Act」が成立してから150年の間、市民によって大切に維持されてきたコモンが自然体の優しさで迎え入れてくれる。たとえ会話はなくても散歩している人たちがお互いに軽く会釈し、または互いの元気な姿を確認して安心する。このコモンの存在に大勢の人々がどんなに救われたことであろうか。

4. まとめ

本稿では英国のコモンズの中で都市郊外型のウィンブルドン・コモンを取り上げたが、この事例からは都市化の波を受けて変化する市民生活に合わせてコモンズの利用のされ方が変化し、また、その利用のされ方に合わせて管理、維持のされ方も変わってきたことを見てきた。
次回以降は時代を遡り、中世英国のコモンズの歴史が大きく関わる「マグナ・カルタ」の舞台となったコモンズ、さらに昔ながらのコモンズの利用形態である家畜の放牧が今でも実際に続いている英国南西部にある国立公園のコモンズを紹介したい。

(参考文献)

『社会的共通資本-コモンズと都市-』宇沢弘文・茂木愛一郎編、東京大学出版会、1994年
『経済と人間の旅』宇沢弘文、日本経済新聞出版社、2014年
『Governing the Commons』Elinor Ostrom、Cambridge University Press、1990(2015年版)

(注1)なお、日本経済新聞の「私の履歴書」にも掲載されたこの逸話に関しては、占部先生ご本人によると、経済学者的な脚色が若干入っているとのこと。
(注2)「囚人のジレンマ」のように、ゲームの参加者がそれぞれ自分の利益が最大になるようにプレーした結果、参加者それぞれの取り分が減って最小になってしまう状況に追い込まれるのに対して、ゲームの参加者が協力し合うことにより、参加者の合計の取り分を最大にできる状況を作ること。
(注3)共有地の一般名詞は日本語では「コモンズ」となっているが、Wimbledon Commonの名称は単数形のCommonとなっているため、Wimbledon Commonの日本語表記について本稿では「ウィンブルドン・コモン」または「コモン」を使用する。
(注4)ウィンブルドン・コモンを東京都内の郊外型公園と比較すると、丸の内から20㎞弱離れている井の頭恩賜公園の広さは約0.428㎢であり、ウィンブルドン・コモンはその約8倍の広さである。同じく35㎞以上離れている昭和記念公園の広さは1.653㎢であり、ウィンブルドン・コモンはその2倍以上となる。
(注5)ウィンブルドン・コモンに関する情報は、本文中にある風車小屋の博物館の展示物・資料およびそのホームページwww.wimbledonmuseum.org.uk、およびウィンブルドン・コモン管理者のホームページhttps://www.wpcc.org.uk/about-us/our-historyなどを参考にした。
(注6)ここでは封建制度の下での領主-小作人関係を前提にcommonersを小作人としているが、封建制度が崩壊した後はこのcommonersはコモンズの利用権保有者という意味になっており、広く一般庶民を指す言葉commonsとは共通語源である。なお、現在の英国議会の庶民院(下院)はthe House of Commonsと呼ばれ、貴族院(上院)はthe House of Lordsであり、貴族(領主)との対比でCommonsが使用されている。
(注7)准男爵(baronet)は世襲制ではあるが貴族とはみなされず、貴族院(上院)議員にはならない。なお、伯爵(earl)は公爵、侯爵に次ぐ貴族の爵位である。
(注8)居住地区や敷地面積によって異なるが、この管理料は日本円にして凡そ年間1万円(2021年)。因みに、昭和記念公園の年間パスポート料金(2022年現在)は大人1人4,500円、中学生以下の子供は無料なので、このウィンブルドン・コモンの年間管理料は昭和記念公園の大人2人分(プラス中学生以下の子供を含む家族)の年間パスポート料金とほぼ同額ということになる。

著者プロフィール

酒巻 弘 (さかまき ひろし)

一般財団法人日本経済研究所 専務理事

1982年東京大学経済学部卒業後、日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)入行。同行にて主に投資関連業務に携わった後、同行グループ金融子会社の社長および会長。その間、留学、国際機関への出向を含め4回、合計12年間欧米に滞在。また、設備投資研究所主任研究員として社会的共通資本について研究し、著書に東京大学出版会の社会的共通資本シリーズ『都市のルネッサンスを求めて』(共著)。2021年6月より(一財)日本経済研究所専務理事。