『日経研月報』特集より
人的資本経営とは人を輝かす経営
2024年4-5月号
現在、「人的資本経営」という考え方が急速に浸透してきている。経済産業省によると、「人的資本経営」とは、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」と定義される。言い換えると、企業等の組織が、その内外に抱えている人材を資本と考えて投資をし、その価値を最大限活用することで、企業の価値を最大化していく経営のあり方である。
わかり易い言葉でいえば、できるだけ多くの人材が輝いて、会社に貢献できることを目指した経営のあり方を人的資本経営と呼ぶのである。人材が輝いている状態を最近では、従業員エンゲイジメントで測ることも多いが、人的資本経営が目指すのは、可能な限り多様な人材の能力が発揮され、エンゲイジメント高く働いている状態なのである。
だが、足元をみてみると、わが国の企業では、人的資本経営が本当に効果的に行われているのかに疑問を抱かせる統計的な証拠が幾つか出てきている。例えば、少し前から言われているようにわが国の就業時間あたりの付加価値生産性がOECD加盟国38ヵ国中30位にあるという結果(生産性本部、2022年)である。「就業時間あたり付加価値生産性」とは、労働者が1時間働いて創出する付加価値がどれくらいか、つまり、労働者がどれだけ効果的に価値創造に活用されているかの指標である。同様に、国や経済圏のイノベーション力を評価する最も権威ある指標Global Innovation Indexで、わが国はここ数年13位、14位近辺であり、米国やEU諸国、韓国や中国に劣っている。さらに、国際比較調査で、わが国企業の従業員エンゲイジメントが、比較対象の国に比べて低位である、という結果が多くみられている。例えば、Gallup社が、2022年に発表した調査では、対象国129ヵ国中128位であった。
また、人に対する投資という観点では、日本企業の人材育成投資が他国に比べて低いという結果が出てきている。さまざまな推定があるが、OECDの研究者が丁寧な手法で分析をした結果によると、わが国の企業内人材投資は、OECD諸国と比較して、下から数えて2位であり、特に研修などフォーマルな育成投資が少ないことが示されている(注i)。
ただ、考えてみると、日本企業は、これまで人や人材を大切にしてきたのではないのか。「わが社の経営の根幹は人である」と豪語する経営者も多い。『Japan As No.1』という書物が出版された1980年近辺では、日本の強みのひとつは、人とその活用の仕方だと言われており、当時は海外からの視察団や研究者が多数来日し、わが国の経営のあり方を研究して帰っていった。
この時代に作られた日本企業の人材の確保や活用の仕方が限界に来ているのである。賃金決定に未だに年功的要素を残している企業は多いし、多くの企業は今でも新卒一括採用という名の下、能力は高いが、入社時点での職業遂行能力が極めて低い人材を採用し、時間と労力をかけて育成している。さらに、若手などに大きなチャレンジを与えたり、ポテンシャルの高い人材に賭けたりする人事の導入も遅れているし、降格や降給など、マイナスのインセンティブを与える人事施策を行っていない企業も多い。
人的資本経営という議論は、現状に対する株主や投資家からの「改革要求」なのである。過去の人材管理のあり方を改革し、人材が経営目標の実現に向けて、活躍し貢献できるような仕組みと運用を整え、結果としてできるだけ多くの人材が潜在的価値を最大限発揮できるような人事管理のあり方が必要だという要求なのである。
そうでないと、わが国の企業が、他国に比してどんどん後れを取るということだと思う。また働く人にとっても良いことではない。エンゲイジメントの低い状態は、職場や仕事に対して「心ここにあらず」ということであり、働きがいなどを感じる状況ではないからだ。「人的資本経営」という議論が急速に進んだ背景は、「このままではダメだ」という深層にあるメッセージが、株主、投資家、または働く人自身に響いたことがあるだろう。
人的資本経営を、単に法的に求められる人的資本情報を開示し、コンプライアンスをすればよいというだけに終わらせてはいけない。株主や投資家からの人事管理への改革要請と捉え、改革に果敢に取り組むべきなのである。
(注i)Squicciarini, M., Marcolin, L., & Horvát, P. (2015). “Estimating cross-country investment in training: an experimental methodology using PIAAC Data.” OECD Science, Technology, and Industry Working Papers