『日経研月報』特集より

人的資本経営における人材育成投資

2023年4-5月号

岩本 隆 (いわもと たかし)

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 特任教授

1. 日本の産業人材政策の推移

筆者は「産業プロデュース論」を専門分野として活動をしている。産業プロデュース論とは筆者が作った言葉であり、政策などもツールとして活用しながら新産業をプロデュースする考え方であり、2008年からさまざまな新産業領域で政策と連携しながら新たな産業のプロデュースを行っている。これまで、環境・エネルギー、スマートシティ、農林水産、高齢化社会におけるまちづくり、再生医療、ヘルスケアなどさまざまな新産業領域でのプロデュースに関わってきた。
産業人材領域では、2013年頃からHRテクノロジー産業のプロデュースに取り組んでいる。HRはHuman Resources(人的資源)の略である。HRテクノロジーとは、人事や人材マネジメントで活用するテクノロジーのことであり、HRテクノロジーのツールである人事や人材マネジメントで使われる情報通信システムが、世界では「HCMアプリケーション」と呼ばれている。HCMはHuman Capital Managementの略であり、これを日本語に訳すと、今日本でバズワード化している「人的資本経営」ということになる。
「HRテクノロジー」という言葉は海外では2000年前後から使われていたが、日本では2015年4月24日に慶應義塾大学日吉キャンパスで開催された「HRテクノロジーシンポジウム」で初めて使われた[1]。そして、2016年10月にProFuture株式会社が、日本初のHRテクノロジーに特化したイベントである「HRテクノロジーサミット」を開催し、同時に「第1回 HRテクノロジー大賞」の授賞式を行ったが、これらがきっかけとなり、HRテクノロジーという言葉がバズワード化し、日本でも大きく注目されるようになった。このイベントにはNHKとForbes JAPANの取材が入り、NHKは2016年10月7日に「おはよう日本」という番組で「人工知能 職場をどう変える?」というテーマで特集をし、Forbes JAPANは2016年10月30日にHRテクノロジーの特集記事を出した[2]。
経済産業省がこのHRテクノロジーの盛り上がりに着目し、2017年に入ってからHRテクノロジーを活用した産業人材政策を次々と打つようになった。表1に2017年以降の日本の産業人材政策の推移を示す。産業人材政策は日本企業の産業競争力を高めることが目的であり、「生産性革命」と名付けて、労働生産性を高めて、企業の生産性を高めることを意図して策定されている。

その流れのなかで、2022年6月7日に閣議決定された「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画~人・技術・スタートアップへの投資の実現~[3]」に「人への投資」を抜本強化することが示され、現在、人的資本投資は日本全体の大きな課題となっている。

2. 人的資本経営と人的資本投資

人的資本経営とは人材を資源ではなく資本と捉える考え方である。資本とは事業活動の元手のことであるが、資本をどう活かすかによって資本の価値が変動する。人材を資本と捉えるということは、人的資本を価値が変動するものとして捉え、人的資本の価値をいかに高めていくかを重視した経営が人的資本経営ということになる。そして、人的資本の価値を高め、企業の利益を高めるためにいかに投資をしていくかということが経営上の大きな課題となる。つまり、人的資本にROI(Return On Investment:投資利益率)の考え方を導入して経営を行うことである。そのためには、経営戦略と連動した人材戦略が必要となり、経営戦略に連動した人材戦略を実行するための人的資本投資のあり方を詰めることが必要となる。
人的資本経営の重要性の高まりは世界的な動きでもあり、2011年にISO(International Organization for Standardization:国際標準化機構)に人材マネジメント(Human resource management)の専門委員会(Technical Committee)であるISO/TC 260が創設された。ISO/TC 260では、さまざまな人的資本領域でROIを測定するための国際規格が開発されている。2023年2月時点で27の国際規格文書が発行されており、これらの国際規格の民間企業での活用も進んでいる。
ISO/TC 260が発行した国際規格文書の中で、とりわけ、ISO 30414という国際規格文書が世界に影響を与えた。ISO 30414のタイトルはGuidelines for internal and external human capital reporting(内部・外部への人的資本報告のためのガイドライン)であり、内部への報告は人的資本経営のためのもの、外部への報告は資本市場や労働市場等外部への開示のためのものである。
今は世界的に第四次産業革命が進行中であり、AI(Artificial Intelligence:人工知能)等のデジタルテクノロジーがあらゆる産業領域に影響を与え産業構造が変化している。新たな産業では無形資産をベースとした産業が多く、企業価値に占める無形資産の割合が高まってきている。そのため、無形資産の重要要素である人的資本の開示も資本市場等から求められるようになり、ISO 30414の発行をきっかけに人的資本開示の政策検討も世界各国で進んでいる。
日本でも金融庁が主体で検討した2023年1月31日に「企業内容等の開示に関する内閣府令」が改正され、2023年3月期決算から一部の人的資本情報の開示が義務化された[4]。また、内閣官房の非財務情報可視化研究会が2022年8月30日に「人的資本可視化指針」を公表し、19の事項について人的資本開示をすることを求めており[5]、日本企業も人的資本開示を強化する必要性に迫られている。
ISO 30414では11の人的資本領域において58のメトリック(測定基準の意味)が示されており、表2に筆者が翻訳したISO 30414が示す58のメトリックを示す[6]。表2の×がついたのが対象とするメトリックであり、大企業は内部向けに58、外部向けに23、中小企業は内部向けに32、外部向けに10が対象となる。

人的資本経営においては、これら11の人的資本領域のどの部分にどう投資をしていけばリターンが最大化するかについてデータを元に判断していくことが求められる。内閣官房の新しい資本主義実現会議が提示する人への投資では、給与を上げることと、人材育成への投資が重点的に語られているが、企業の人的資本経営においてはこれら以外の領域での投資の検討も重要となる。一方で、日本政府は人材育成を大きな課題と捉えていることから、本稿では、人材育成領域での人的資本投資を中心に述べることとする。

3. 人材育成領域におけるデータ活用のガイドライン

ISO/TC 260では人材育成に関連する国際規格文書は以下の4つが発行されている[7]。ISO 10667は人材アセスメントのためのもの、ISO 30422は学習・開発のためのもの、ISO/TS 30428はスキルとケイパビリティのためのもの、ISO/TS 30431はリーダーシップのためのものである。TSはTechnical Specifications(技術仕様)の略である。
●ISO 10667-1:2020 (Assessment service delivery - Procedures and methods to assess people in work and organizational settings - Part 1: Requirements for the client)
●ISO 10667-2:2020 (Assessment service delivery - Procedures and methods to assess people in work and organizational settings - Part 2: Requirements for service providers)
●ISO 30422:2022 (Human resource management - Learning and development)
●ISO/TS 30428:2021 (Human resource management - Skills and capabilities metrics cluster)
●ISO/TS 30431:2021 (Human resource management - Leadership metrics cluster)
これらの国際規格はISO 30414にも反映されており、ISO 30414では人材育成領域において以下のメトリックが示されている。
●人材開発・育成の総費用
●リーダーシップ研修に参加した従業員の比率
●全従業員に対し年間で育成プログラムに参加した従業員の比率
●カテゴリー別の育成プログラムに参加した従業員の比率
●従業員1人当たりの平均育成プログラム参加時間
●労働力のコンピテンシーレート
人材開発・育成の総費用が人材育成への投資額ということになるが、これはOff-JT(Off-the-Job Training)だけでなくOJT(On-the-Job Training)も含めるのと、社外への費用だけでなく、社内の費用(人件費、設備費等)も含める。日本企業は管理会計のシステムが弱いため社内費用を普段から測定できていない企業も多いが、人的資本投資を定量的に進めるうえでは社内費用も自動的に測定できる仕組みをもつべきである。
労働力のコンピテンシーレートは人材育成の効果を測るためのものである。コンピテンシーとは、優れた成果を創出する個人の能力・行動特性のことであり、欧米の企業ではKCI(Key Competency Indicator:重要コンピテンシー指標)を人材評価に活用している企業が多い。表3にKCIにおけるスコア化のイメージを示す。例えば、ある従業員の年間目標として3つのコンピテンシーにおいて目標を決めたとする。重要度と達成度を掛け合わせものをスコアとし、表3の事例だと、3つのスコアを足し合わせ、40+21+12=63がその従業員の合計スコアとなる。筆者も外資系企業で組織のマネジメントをしていた時は全ての部下に対して、業績の達成度に加え、KCIのスコアも評価していた。ただ、ISO 30414はあくまでガイドラインであるため、コンピテンシーレートが指標として自社に合わない場合は、自社なり別の評価指標を活用しても良いが、いずれにしろ、人材育成への投資の効果を評価することが求められる。

ISO 30414に則ると、人材育成への総投資額に対し、どのような育成プログラムに何%の従業員が、どの程度の時間を費やし、その結果どういった効果が発揮されたのかをデータで示すということになる。

4. 人材育成のデータ開示事例

ISO 30414にも、他のISO規格と同じように認証の仕組みがあり、世界のさまざまな地域に認証機関ができている。ISO 30414認証は、企業が行う人的資本報告を認証するものであり、認証を取得した各社は人的資本報告書として外部にも人的資本経営の活動について開示している。日本では株式会社HCプロデュースが2021年から認証機関として活動しており、2023年2月時点で、株式会社リンクアンドモチベーション、豊田通商株式会社、Modis株式会社の3社の日本企業がISO 30414認証を取得している。3社とも人材育成は重要な領域としてデータを開示している。以下に各社が人的資本報告書で開示している大項目を記す[8-10]。開示内容の詳細は各社のウェブサイトで公開されている人的資本報告書を参照されたい。

【リンクアンドモチベーショングループ「Human Capital Report 2021」】
CHAPTER 1:戦略

●経営の考え方
●生産性
●「組織」の重要テーマ
●組織のDX強化

CHAPTER 2:採用

●採りたい人材を口説く採用
●高いエンゲージメントを創り出す採用

CHAPTER 3:育成

●アイカンパニーの育成
●経営人材の育成

CHAPTER 4:制度

●モチベーションを成果につなげる評価・報酬
●一点の曇りもない経営

CHAPTER 5:風土

●戦略的なコミュニケーション設計
●ワークスタイル

【豊田通商「Human Capital Report 2022」】
I. CHROメッセージ-豊田通商の人的資本経営

II. 理念・ビジョン

III. 人的資本経営に向けての取り組み
-強い個-

1. 人材開発
2. 健康経営

-強い組織-

3. Diversity, Equity & Inclusion(DE&I)
4. 適所適材・適材適所
5. 人権尊重

IV. 人的資本メトリクス

1. 倫理とコンプライアンス
2. コスト
3. 健康・安全・幸福
4. 労働力
5. 生産性
6. 採用・異動・離職

【Modis「Human Capital Report 2022」】

1. 冒頭メッセージ
2. 事業概要
3. 企業理念
4. ビジョン
5. Modisが考える人的資本方針
6. 人的資本経営の実践
6.1. ビジョン実現について

●労働力、ダイバーシティ
●生産性
●採用・異動・離職
●人的資本ROI

6.2. チーム協業について

●リーダーシップ
●スキルと能力
●後継者計画

6.3. チャレンジ文化について

●組織風土
●健康・安全・幸福
●倫理とコンプライアンス

5. 結 言

本稿では、産業競争力を高めるために人的資本経営の重要性が高まったこと、人的資本経営ではROIの考え方を導入し、最適なリターンを生み出すための人的資本投資を行うこと、そのための測定方法が国際規格化されてきており、人材育成領域でもそれに則ったデータ活用が進んでいることと、データ活用の日本企業の先進事例の概要などを紹介した。
各企業には、自社の人材育成投資が真に人材の価値を高めているか、そして、それが企業の業績につながっているかということを改めて見直してみることに是非取り組んでみていただきたい。そのためのデータ活用については国際規格や他社事例などが示され始めたので、そういったものを参考にしていただくと良いであろう。

参考文献

[1]慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科、「「Human Resource Technology Symposium」開催」、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科ウェブサイト(2015年)
[2]Forbes JAPAN編集部、「人材管理から福利厚生まで、日米HRテック20選」、Forbes JAPAN(2016年)
[3]新しい資本主義実現会議、「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画~人・技術・スタートアップへの投資の実現~」、内閣官房ウェブサイト(2022年)
[4]金融庁、「「企業内容等の開示に関する内閣府令」等の改正案に対するパブリックコメントの結果について」、金融庁ウェブサイト(2023年)
[5]内閣官房非財務情報可視化研究会、「人的資本可視化指針」、内閣官房ウェブサイト(2022年)
[6]ISO、「Human resource management - Guidelines for internal and external human capital reporting」、ISO(2018年)
[7]ISO、「Standards by ISO/TC 260 Human resource management」、ISO(2023年)
[8]リンクアンドモチベーション、「Human Capital Report 2021」、リンクアンドモチベーションウェブサイト(2022年)
[9]豊田通商、「Human Capital Report 2022」、豊田通商ウェブサイト(2022年)
[10]Modis、「Human Capital Report 2022」、Modisウェブサイト(2022年)

著者プロフィール

岩本 隆 (いわもと たかし)

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 特任教授

東京大学工学部金属工学科卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院工学・応用科学研究科材料学・材料工学専攻Ph.D.。日本モトローラ(株)、日本ルーセント・テクノロジー(株)、ノキア・ジャパン(株)、(株)ドリームインキュベータを経て、2012年6月より2022年3月まで慶應義塾大学大学院経営管理研究科特任教授。2018年9月より2023年3月まで山形大学学術研究院産学連携教授、2022年12月より慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授。
(一社)ICT CONNECT 21理事、(一社)日本CHRO協会理事、(一社)日本パブリックアフェアーズ協会理事、(一社)SDGs Innovation HUB理事、(一社)デジタル田園都市国家構想応援団理事などを兼任。