『日経研月報』特集より
住み慣れた場所で自分らしく暮らすという幸せ
2024年2-3月号
2024年は、1月1日の能登半島地震、1月2日の羽田空港での航空機衝突事故に始まり、苦難の中にスタートを切る1年となった。3年前に当時37歳で鹿児島県日置市長になった私にとって、国内での激甚災害を首長としてリアルタイムに経験するのは初めてのことだった。元旦から全国の市長と連絡を取り合い、日置市においては公営住宅での避難者受け入れと、避難に必要な移動費等の支援体制を急いで整えた。各方面からの情報収集と支援に向けた協議を行っていたころ、SNSのX(旧Twitter)で、「復興より移住を」という意見に賛否両論が集まっているのを興味深く眺めた。「経済合理性を考えると、僻地の数少ない住民のためにインフラを再構築するのはいかがなものか」という論調だ。
私は鹿児島県日置市出身で、18歳の春に地元を出た。福岡での大学生活、そして日本政策投資銀行に入行して始まった東京での社会人生活を経て、26歳で故郷に戻った。コロナ禍の変革期に市長選に挑み、全く畑違いの政治・行政分野に挑むこととなった私の支えとなったのは、大学時代・銀行員時代の友人達だった。
市長就任後、そんな友人達と親しく会話するなかで、件の「復興より移住を」といった意見を聞く機会は少なくない。曰く「全国津々浦々、鹿児島県日置市も含め、過疎地域のインフラを維持することは全体最適の観点から問題なのではないか?」と。または「現代社会はネットにつながっていればどこでも仕事ができる。不便な地方に留まる人のニーズにいつまで応え続けることができるのか?」と。このような意見を表面上は笑顔で受け止めるが、私の内心はあまり穏やかなものではない。
期間は短いながら私も金融機関で勤務し、経済合理性を最大の前提に仕事をした時期がある。一方で、今、現職の市長として一つの地域の現実を受け止める立場になると、市民一人ひとりにとっては、今暮らすこの街こそが世界であり、この暮らしこそが日常であるという事実が大きく迫ってくる。住む場所と暮らしは分かち難く繋がっており、安易な転居が出来ようはずもないという事実は、重い。
2005年に鹿児島県東市来町・伊集院町・日吉町・吹上町の4町合併で誕生した我が日置市の未来を、市民一人ひとりの暮らしの視座から描くため、私は一期4年間の任期を分割し、1年ごとに旧町エリアを引っ越ししながら市政にあたっている。東市来町在住時に妻と子ども一人の3人暮らしだった我が家は、吹上町在住時に第二子を授かり、日吉町在住期間を経て、現在は4か所目となる伊集院地域に居住している。それぞれの地域にはそれぞれの暮らしがあり、食べるもの、見るもの、聞くもの、すべてが居住地によって大きく変化することを実感している。
比較的自由な働き方になじみの深い私の世代であっても、住む場所と暮らしが密接に接続するのだ。高齢化率の高い我が日置市の市民にとって、住み慣れた場所を動くことの負荷は並大抵ではない。政治・行政の大きな使命の一つは、市民福祉の向上である。住み慣れた地域で年をとっても自分らしく幸せに暮らす環境を守ることは、私が向き合うべき重要なテーマの一つだが、その実現は容易ではない。脅威は大規模災害のみならず、小規模店舗の撤退や、公共交通機関の減便、有害鳥獣の増加など多岐にわたる。日置市は、限界集落への移動販売車の誘致、デマンド型交通の整備、ジビエ処理施設の整備等、あらゆる手段を活用して地域の持続可能性を高める投資を続けている。と同時に、これら社会課題の先進地域ともいえる日置市を舞台に挑戦することを求めて、若い起業家が少しずつ移り住み始めた。人口減少が止まることはない。できるのは、その速度を緩め、人口減少社会においても市民の幸福度を高めるためにできることを一つずつ積み上げていくことだけだ。
「限界集落のインフラを維持するのは無駄なのではないか?」と問われたら、私はこれからも曖昧な表情で苦笑いを浮かべることだろう。今はまだ、その問いに対する明快な回答となりえる現実を作る途上だ。前例のない人口減少社会に突入し、全国の首長がこの問いに向き合っているのが2024年の現在地だ。私はこれからも4万7千の市民とともに、この正解のない問いに向き合いながら、全力で挑戦を続けていきたい。