明日を読む
日銀の金融政策正常化とインフレ動学の不安定性
2023年12-2024年1月号
植田総裁の下で日銀が進める金融政策正常化の行方が注目を集めている。その第一歩は7月に長短金利操作(イールドカーブ・コントロール、YCC)を弾力化して、長期金利の上限を実質的に0.5%から1.0%へ引上げたことだが、この措置は成功だったと評価できよう。その後、長期金利が0.7~0.8%程度に上昇した事実を踏まえると、仮にYCC弾力化が行なわれなかったならば、この夏にも昨年秋のように長期国債が売り込まれて、イールドカーブも大きく歪んでしまった可能性が高いからだ。
ただし、この間に総裁の金融政策に関する発言が大きく揺れたため、金融市場関係者が右往左往させられたことは否定できない。実際、総裁就任直後には金融緩和継続の必要性を強調して強いハト派の印象を与えた一方、YCC修正後のインタビューでは物価上昇に確信が持てればマイナス金利解除も選択肢とした上で、その判断に必要なデータが年末までに揃う可能性まで示唆した。
その背後にあるのはインフレ動学の不安定性、具体的に言えばフィリップス曲線の形状が大きく変化していることだろう。コロナ危機の前までは、日本だけでなく欧米でもフィリップス曲線が著しくフラット化し、多少景気がよくなっても物価は殆ど上がらない時期が長く続いた(これは、先進国全体が「日本化」している証拠と解釈された)。ところが、コロナからの経済の正常化が始まると、日米欧を問わずフィリップス曲線が急激に立ち上がってきたのだ。
しかし、物価の先行きを予測する上で最も役に立つのはフィリップス曲線に関する経験則だから、ここが不安定化すると物価見通しは著しく難しくなる。このため、一昨年から昨年に掛けて連邦準備理事会(FRB)も欧州中央銀行(ECB)もインフレ見通しを大きく過少評価したが、同じことが遅れてインフレが始まった日本でも起きたのだと思う。
想像するに、総裁就任後日銀のスタッフから慎重な物価見通しを聞かされた植田総裁がハト派発言を繰り返していると、現実の物価統計は予想以上に強かった。このため、急いでYCC修正に踏み切ったということではないか(事実、日銀は7月に今年度の物価見通しを大幅に引上げている)。9月の金融政策決定会合後の記者会見で、植田総裁は金融政策の先行きについて「到底決め打ちはできない」と繰り返したが、これは物価見通しの不確実性を強調したかったのだと思う。ここ半年余りの植田日銀の滑り出しはまず順調だったが、その先行きにはインフレ動学の不安定性が障害として立ちはだかると考える必要がある。
まず当面は、物価見通しをさらに引上げる一方、金融政策については慎重姿勢を貫くと予想するが、両者の整合性について丁寧に説明することが必要だ。東京大学の渡辺努教授が指摘するように、政策据え置きを正当化するために物価見通しを意図的に低くすることはあってはならない。
次は来春に掛けて、賃金と物価の好循環が続くかどうかを見極めて、マイナス金利解除の是非を判断するタイミングを迎える。市場の反応にせよ政治からの圧力にせよ、日銀へのプレッシャーが極大化する中で、この難しい判断を下さなければならない。
この局面を乗り切っても、困難はその先にもある。日銀は現状、意図的に遅れ気味の金融正常化、言い換えるとビハインド・ザ・カーブ戦略を採っていると考えられるが、賃金と物価の好循環が確認できれば、ある程度利上げペースの加速が不可避になる。インフレ率2%超が続く中で、金利がいつまでもゼロ近傍ということはあり得ないからだ(これは、スピードの差はあっても、FRBが昨年中に金利のキャッチアップを進めたのと同じである)。しかし、市場参加者の大半が「マイナス金利が終わっても、当分金利はゼロ近傍」と思い込んでいることを踏まえると、ここでは周到なコミュニケーション戦略を持って臨むことが求められよう。