『日経研月報』特集より

異分野融合による新たな価値創出を目指して

2022年12月号

西本 智実 (にしもと ともみ)

指揮者

はじめに

西本智実さんは指揮者として国際的に活躍する世界的指揮者です。2012年からは、オーケストラやオペラの指揮にとどまらず、芸術監督として自ら率いる「イルミナート(オーケストラ・オペラ・バレエ・合唱)」の組成、舞台や映像番組制作プロデュースなど多岐にわたる活動を行っていますが、その根底には、異なる分野、異なる文化を融合させて新たな価値を生み出そうとする、イノベーティブな思考が横たわっていることが窺えます。こうした着眼の背景には、幼いころから培われた「芸術と科学」に対する関心があるとのことです。
さらに現在西本さんは、内閣府主導の「ムーンショット型研究開発制度」において「こころの安らぎや活力を増大することで精神的に豊かで躍動的な社会を実現」をテーマに、音楽の持つ可能性(音楽療法の可能性、音・音楽が味覚や触覚など五感に与える影響)について、サブプロジェクトマネージャーおよびPrincipal Investigatorとして研究開発にも携わり、芸術と科学の融合について、具体的に取組みを進めています。イノベーティブな発想を持って積極的に異分野融合、そして音楽と科学の融合に取り組む西本さんの活動の礎となる原体験や現在の取組み、今後の目標などについて、お話を伺いました。

生い立ち、音楽活動の原点

-西本さんが脳科学の研究に興味を持たれたきっかけについて、西本さんの生い立ち、ご経歴から紐解いていきたいと思います。そもそも西本さんの音楽活動の原点はどのようなものでしょうか。

西本 私の母は声楽科出身で、胎教からの影響もあったかと思います。近い親族にも音楽大学出身者が数人います。3歳からピアノとクラシックバレエを正式に習い始め、物心ついたころから耳なじみの曲がすでにあり、無意識ながら自分の好みは幼少期に形成されていたかと思います。

音楽と脳科学・気づきの背景

-クラシック音楽が身近にあったのですね。西本さんは、音や和声を聞いたときに「色彩」を感じられるそうですね。これはどういうことなのでしょうか。

西本 音に色を感じたり、匂いを感じるという事は共感覚と呼ばれています。私自身は音や和声から色彩を感じています。言葉にしづらいのですが、例えば、ドレミファソでいうと、ドの音は透明に近いオレンジ色、ラくらいまで行くと濃い紫になるような感覚でしょうか。また、和声になると、基音によっていろんなグラデーションが生まれますので、ト長調(G-dur)やイ短調(a-moll)などなど、調性に対しても色彩感覚があります。基音を軸にハーモニー自体の色合いを感じる、といいましょうか。演奏中も色彩を感じています。
こうした音楽による色彩感覚は、みんなが持っているものだと思っていたのですが、ある公演でオーケストラメンバーに挙手によるリサーチをしたところ、音に対する色彩感覚を持っている方は30%くらいでした。一方で、音楽から匂いを感じる方も数は少ないですがいらっしゃいました。ちなみに私は音から匂いは感じません。音や音楽は聴覚だけでなく、視覚、嗅覚、味覚、触覚など5感に影響を与えていることが分かります。

音楽が叶える価値の共有

-興味深いですね。音楽を言語化するのは難しいかと思います。

西本 それはとても難しいことです。しかし、文字や数字を音楽化することはできます。ドレミファソの音階記号ではC、D、E、F、G……と続きますが、アルファベットを音に変換できますね。例えば作曲家バッハの名前をアルファベットではBachと表記されます。それを音符に変換しますとシ♭ラドシ♮となります。また、楽譜というのは、音の高さと時間軸でも表現されています。つまり、数値やさまざまな情報も楽譜で記号化できます。楽譜というのは素晴らしい人類の発明なんですよ! 音楽は言語を超えた非言語コミュニケーションでもあります。

-「作曲家は建築家、指揮者は現場監督」に例えていらっしゃいますが、作曲家の描いた設計図を検証し、現場監督として工程通りに再現する作業で大切にしていることは何でしょうか。

西本 楽譜からは2次元、3次元、4次元の世界を感じています。しかし、机上で想像するのと実際の空間は異なります。ヴァチカンや泉涌寺はじめ野外公演での演奏を経験があったからこそ、現場では音を“見る”という感覚を持ちます。空間に広がる音の響き、つまり音の波を意識します。

-音楽は科学的に捉えることもできるのですね。

西本 音は振動の波です。音楽芸術は、科学と対極にあるものと思われがちですが、かつて人が生きるために身につけるべき学術及び技芸の基本とされていたリベラルアーツの中には音楽が入っていました。音楽は、自然科学、人文・社会科学を結ぶ蝶番的役割りも担う科学でもあると私は考えています。

異文化との懸け橋として/音楽の価値の共有

-西本さんはこれまでも例えば、イルミナート(オーケストラ・オペラ・バレエ・合唱(注1))などで、東洋と西洋の異分野を融合する取組みも積極的に行われてきました。そもそも、異なる分野や文化を取り入れたいと考えるようになった原体験は何でしょうか。

西本 やはり日本で生まれ育ったことです。西洋音楽を学ぶなかで、自然と対峙するのではない日本の文化を知る事となりました。例えば、庭に対しての考え方、噴水ではなく日本の地形から生まれる滝そのものを愛でる感性、鳥獣を追い払う道具からやがて風流な鹿威しへと柔軟な発想から生まれてきたものへの愛着が強いです。
異なる次元をも融合しており、そこからもさまざまなインスピレーションを受けています。ちなみに、コンサートの舞台には幕はありません。私は舞台袖から指揮台に向かうとき、お能の橋懸かりのようにも感じ始めています。前述しましたように西洋音楽から日本の文化を知ることとなり、そのように一見関係の無い事が何らかの考え方によって結びつきを得たりし、変幻自在の発想が生まれる事もあるようにも思います。壁を取り払う事で新たな組合せがあると考え、イルミナートを創設しました。現在も、文理融合、総合芸術、Music Entertainmentを実現することを目指しています。

-2017年には、イルミナートで「ストゥーパ~新卒塔婆小町~」という舞台を、「イノベーションオペラ」と名付けて総合プロデュースされました。そこで西本さんが表現したかったもの、観客に伝えたかったことはどのようなものなのでしょうか?

西本 お能の「卒塔婆小町」を翻案しまして、オペラを音楽劇に近づけたものです。時空を超える人間の心をテーマに、“卒塔婆”がサンスクリット語の“ストゥーパ”の当て字であるなど、文化はさまざまな異文化の要素が接ぎ木のように融合していることを表出しようと演出しました。「ストゥーパ~新卒塔婆小町」の脚本は演奏会でエルサレム滞在中、ホテルから目の前にある旧市街を眺めながら着想を得たものです。

-異分野融合といえば、西本さんの印象的なエピソードとして、生月島(長崎県平戸市)で16世紀より伝承されてきた祈り「オラショ」を、かつてヨーロッパの宣教師が日本に伝えた聖歌であるとして、2013年のヴァチカン国際音楽祭で披露されました。

西本 「オラショ」が生月島に残っている話しを小学生の頃に祖父から聞きました。ヴァチカン国際音楽祭から私に第九の指揮招聘が決まった後、サンピエトロ大聖堂のミサで演奏する作品について現地での会議に出席しました。その場で演奏希望曲があるかを尋ねられた時には天地がひっくり返るほど大変驚きました。ミサ曲を主導してきたヴァチカンからミサ曲を指定されると思っておりましたから。咄嗟の事で緊張しながら長崎県平戸市生月島の潜伏・隠れキリシタンが約450年、現在も口伝で遺されている「オラショ」の存在を伝えました。宮崎賢太郎氏そして皆川達夫氏によって研究解明された原曲「Laudate Dominum」「Nunc dimittis」「O gloriosa Domina」を選曲できるかご提案を申し出ました。すぐさま「ローマ教皇専属システィーナ合唱団」の音楽監督に電話がかけられ、「その三曲が、サンピエトロ大聖堂ミサに相応しい作品か、その時期に演奏するに相応しい作品かなど調査し、追って連絡します。」と会議は締めくくられ、約1か月後にその3曲がサンピエロ大聖堂で演奏に相応しいと決定の連絡がありました。口伝のみで約450年も後世に伝えられたのは、親や先祖に対する愛の証。そして音楽の力もあると考えます。つまり、音楽の抑揚の節回しによって、人間の記憶力に影響を与え、それらが崩れず伝えられたのだと考えています。

今後の活動・目標

-現在、西本さんは、内閣府「ムーンショット型研究開発制度」の目標9(2050年までにこころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現)のサブプロジェクトマネージャー及びPrincipal Investigatorを務められています。この事業に西本さんが関わられたきっかけは何だったのでしょうか。

西本 コロナ禍の制限のなかでこそ、音楽の可能性に希望を抱いていると、教員や子どもたちからも私にメッセージが寄せられていました。その可能性を模索しているなか、音楽の周波数についてインターネットで調べている時、偶然見つけたページが、内閣府のムーンショット型研究開発制度でした。この制度は、「未来社会を展望し、困難だが実現すれば大きなインパクトが期待される社会課題等を対象として、人々を魅了する野心的な目標(ムーンショット目標)」を国が策定して、失敗も許容しながら挑戦的な研究開発を推進するものです。すでに目標のいくつかが発表されていましたが、今後の目標設定にも音や音楽の要素が入っていなくて、居ても立っても居られなくなり、ムーンショット新たな目標検討のためのビジョン策定「ミレニア・プログラム」に思い切って申請したのが2020年のことでした。「ミレニア・プログラム」に採択された後、新たな目標8と目標9が決定しました。その後、ムーンショット目標9の課題に取り組むチーム、「Awareness Musicによる『こころの資本』イノベーション」というプロジェクト名で申請し採択され、現在研究を進めているところです。

-西本さんの研究が目指すものは、どのようなものでしょうか。また、具体的な取組内容も少し教えて下さい。

西本 音や音楽による気づき科学による感性を育む事です。有史以来、音や音楽は人類にとって大切なコミュニケーションでもあり、まさに人類の叡智です。小さな子供から世代を超えて、予防としての音楽療法を誰もが活用できるようになることも目指し、誰もが享受できるよう音楽の授業でも扱われる事を目標にしています。音や音楽の不思議な力を科学的に証明しながら、生で体感していただくワークショップなどを通して、子供や市民が参加できる機会を多く作りたいと提案しています。領域を超越し、異なるさまざまな感性によってこそ創りあげる事のできる音楽芸術の力が今こそ必要だと考えています。

おわりに

西本さんにイルミナート結成のコンセプトを伺った際に返ってきた、「さまざまな壁を取り払うこと。」という答えが非常に印象的でした。さまざまな分野の間に立ちはだかる壁を取り払い、分野を超えた取組みを実現することで新たな価値を生み出す。このイノベーティブな発想が西本さんの活動の根源にあり、それは生い立ちを含めたご自身の経験により培われたものだと感じました。今後、内閣府の研究プロジェクト等を通じて、音楽と科学の融合についての研究を深めたいとする西本さん。指揮者としての活躍はもちろん、科学を追求する音楽家としての西本さんの取り組みに、今後も着目していきたいと思います。

(注1)2012年、西本智実氏が結成し芸術監督を務める。オーケストラ・オペラ・バレエ・合唱団からなり、3つの理念「グローバルな活動」「教育プログラム」「芸術と科学の共創」を実践している。

 

著者プロフィール

西本 智実 (にしもと ともみ)

指揮者

指揮者、作曲家、舞台・映像演出、プロデューサー。内閣府・ムーンショット9 サブプロジェクトマネージャー・Principal Investigator、広島大学特命教授、大阪音楽大学客員教授、広州大劇院芸術顧問、大阪国際文化大使、ダボス会議(WEF)「2030年イニシアティブ」に取り組むYGLほか。世界約30ヵ国の各国を代表するオーケストラ・名門オペラ劇場、国際音楽祭より招聘。芸術監督としての舞台演出・指揮『泉涌寺音舞台』は【ニューヨークUS国際映像祭TVパフォーミングアーツ部門銀賞】【ワールドメディアフェスティバル ドキュメンタリー芸術番組部門銀賞】受賞するなど受賞多数。2015年・2016年G7サミットでは海外向け日本国テレビCMに起用。ドキュメンタリー番組はCNNインターナショナル、ZDF(WEBSITE)、独仏共同テレビArteなどで放送。