『日経研月報』特集より

社会的共通資本におけるコモンズ論の位置づけと現代的意義

2022年11月号

宇沢 達 (うざわ とおる)

名古屋大学大学院多元数理科学研究科 教授

宮川 努 (みやがわ つとむ)

学習院大学経済学部 教授

〈聞き手〉 酒巻 弘 (さかまき ひろし)

一般財団法人日本経済研究所 専務理事

はじめに

今特集号の企画として、社会的共通資本やコモンズについて考えることで宇沢弘文先生(以下、宇沢先生)のご業績や宇沢先生のお考えを現在及び将来の世界につなげる試みをするべく、宇沢先生のご子息である宇沢達先生(以下、達先生)と、宇沢先生とご縁のある宮川努先生とのリモート対談を実施しました。本稿ではこの対談録をご紹介します。

宇沢先生との出会いと社会的共通資本

酒巻 今回、日経研月報の特集で「コモンズ」をテーマに取り上げたきっかけは、私が以前、宇沢先生から社会的共通資本に関してご指導を賜った際に、社会的共通資本の一つである自然資本としてのコモンズ(社会的共通資本の他の二つは、社会インフラおよび医療・教育などの制度資本)について教えていただいたことにあります。そのコモンズは最近、経済だけではなく、かつて宇沢先生が情熱を傾けて研究されていた地球環境問題、さらには法制度、社会学、文化人類学など、広く社会の仕組みといった文脈で言及されるようになってきています。宇沢先生の社会的共通資本の考え方のコアとなるものは何だったのか、端的にまとめることはとても難しいとは思いますが、宮川先生のお考えをお聞かせください。
宮川 私は学生時代に宇沢先生にお教えいただいたので、社会的共通資本についてはその頃からある程度は知っていましたが、日本開発銀行に入行してから1980年代まではあまり意識することがありませんでした。その後1990年代に同行設備投資研究所で宇沢先生に久々にお世話になったとき、当時、先生が力を入れておられた社会的共通資本に関する研究にお誘いをいただきました。しかし、当時はその研究についてよくわからなかったというのが正直なところです。社会的共通資本の考え方というのは、歴史的、文化的、制度的な条件に依存すると宇沢先生は論じています。ところが、研究や学問は、より一般的な考え方を導出するものなので、学問に関する一般的な理解と社会的共通資本の考え方のギャップに戸惑ったのです。
1991年にバブルが崩壊し、私は早い段階で不良債権の問題が日本にとってかなり深刻な問題になると思っていたため、宇沢先生のお誘いにお応えすることができませんでした。そのことを申し訳なかったと思っていたところ、数年前、宇沢先生の伝記を執筆したジャーナリストの佐々木実さんからお声がけいただき、自分が学んできた経済学の中で社会的共通資本を再構成してみたいと思い、それ以降、社会的共通資本についていろいろな角度から読み直しています。社会的共通資本がこれだけ多くの人に認識されているのは、やはり宇沢先生の著作の幅広さだと思います。専門的な人は経済解析から考え、一般の人は岩波新書を読んで考える、といった具合に、多くの人が社会的共通資本ってこんなものだろうと想像力をかき立てていると思います。
宇沢先生の論文や著書に共通しているのは、人々が健康で文化的な最低限の生活を享受できる、そうした財・サービスが提供可能な社会です。これが、社会的共通資本のコアになる部分だと思います。さらに私個人としては、これに「持続的な制度」という考え方を付け加えたいと考えています。宇沢先生のご息女で医師の占部まりさんは、宇沢先生はサービスという言葉があまり好きではないために、社会的共通サービスとは呼ばず、社会的共通資本と呼んでいたと仰っています。資本はサービスとは違い、一定の経済活動を通じてメンテナンスして維持しなければなりません。宇沢先生は社会的共通資本を通じて、資本の持続性という概念を提唱されたと私は解釈しています。そういう意味で、健康で文化的な最低限の生活を享受するために、人々が自発的に維持していく制度というのが、宇沢先生が考えておられた一つの理想形だと思います。

広がる社会的共通資本

宮川 最近、これに似た考え方が経済学の分野でもかなり出てきています。東京大学教授の松島斉さんが今年8月にコモンズをうまく運用するためのメカニズムデザインについて紹介されました。また、2014年にノーベル経済学賞を受賞したジャン・マルセル・ティロールは著書『Economics for the Common Good』の中で、公共的な市場をどう運営していくかについて論じ、ケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプタはレポート「生物多様性の経済学」の中で、公共的なサービスを提供するマーケットをどのように管理すべきかについて論じています。これらに共通するのは、自然資本やストックの概念を意識しているということです。
市場経済との関係でいえば、達先生も、宇沢先生は決して市場経済を否定したわけではないと強調されていますし、私もそのお考えに同意します。しかし宇沢先生は、市場経済だけだと不安定になるということを1960年代の一般均衡理論の分析で認識されていて、さらにその市場経済を安定化させるためにはアンカーのようなものが必要だと考えられたのだと思います。このアンカーについては、例えば東京大学名誉教授の岩井克人さんやケインズなどが議論した、賃金の固定化を通して経済を安定化させる考え方とも通じています。つまり、物価が上がって賃金が上がる、逆に物価が下がってデフレになり賃金が下がるといったスパイラルをどこかで止める仕組みが必要であるという考え方です。
また、米プリンストン大学教授の清滝信宏さんが提唱する有名な清滝=ムーアモデルがあります。金融システムが不調を来たすと従来の景気循環よりも振幅が大きくなるという考え方です。それに対して金融制度で対応するか、あるいは中央銀行が介入するか、何らかの景気循環を和らげる仕組みが必要です。私はそうした市場経済の不安定性を緩和させる考え方の一つとして、宇沢先生は社会的共通資本を持続的に配置していくことが必要だと考えたのだと思います。

父との思い出と経済学との出会い

酒巻 ありがとうございます。次は達先生から、経済学との出会いについてお聞かせください。
宇沢達 私は今、名古屋大学で数学を教えています。なぜ経済学的な問題を考え始めたかといいますと、7、8歳の頃にアメリカで若い経済学の院生たちといろいろな話をしていた記憶がすでにあります。その後中学生か高校生になると、ミネソタ大学名誉教授のレオニード・ハーヴィッツ(2007年にノーベル経済学賞を受賞)が東京の我が家に長期滞在することがよくありました。父親は多忙で、ハーヴィッチさんがどこかに行くときは大抵、私が案内役でした。道ながらいろいろな質問のやりとりをしたのを覚えています。ハーヴィッチさんの質問は多岐にわたるもので、「日本語を聞いていると、ジとヂの音を聞くが、これは日本語として区別されているのか」といった音声学に関連する質問から、第二次世界大戦についていろいろ話をしていた時に結論として「ヒトラーのような人はある割合で必ず出てくるだろう。彼がどのようにして力を得たのか、そのプロセスに興味がある」となった記憶があります。議論のペースは大体歩きながらいろいろ話をするものですから結構時間がかかります。アメリカに帰化するために憲法の試験があるので、「アメリカの憲法はシステムを決めるためのシステムとなっている」と興味深そうに話していたのもその頃です。システムに対する問題意識が印象に残っています。(「奥様のエベリンさんからは、「レオは話をし始めると長くなるから、うちの子たちは宿題の質問さえ聞きに行かないのに、達はよくつき合ってくれる」と言われました。)また、1970年代後半に、1972年にノーベル経済学賞を受賞した故人ケネス・アローが来日した際、父親と一緒にご夫婦が滞在しているホテルで朝ご飯を一緒に食べている時に、蓄電池が発明されれば人々の暮らしは一変するだろうし、その結果巨万の富を得ることができることは周知のことであるのに新しい原理に基づいた蓄電池は発明されていない。これは経済学者にとっては非常におもしろいパラドックスなのだという話をされました。お金を投じてもブレークスルーは生まれない。では、どうすればそれが可能になるのか、というのが経済学から見ると問題点だということです。楽しそうにこういった話をするアローさんは今から思うと市場経済の持つ役割の限界を常に意識されていたのだと思います。父もそういった議論を吹っかけてきました。例えばアメリカから日本に帰国した当初、電車に乗るときに切符を買って入札する方法について、こんな無駄なものはないというのが父の意見でした。入札にかかる費用もバカにはならないので一律料金にして車内改札にしたら良いのでは、という結論になりました。父とは歩きながら身近な問題について議論しました。身近な問題を経済学から見ると正解はないが面白い問題が多く、いろいろな見方ができる、ということを学びました。

社会的共通資本の今日的意味

宇沢達 社会的共通資本とコモンズとの関係においては、先ほど宮川先生が言われた、シビルミニマムと関係する概念がコアであるという意見に私も賛成です。ある日、父と一緒に歩いていたときです。話題がシビルミニマムに移った時、ある経済学者がシビルミニマムという概念自体を全く認めないのだが日本国憲法でも保証されている権利について経済学的に議論するためにどうしても必要な概念なのでどうしたら良いだろう、と悩んでいました。私が「共産党宣言」が欲しい、とねだったら、大抵の本は買ってくれるのですがミルの「自由論」と一緒だったらいいよ、と許可を得たのと同じ頃です。マルクスの「資本論」では共産主義社会がどのようなものかはっきりしないとも言っていました。貧困、格差と同様「状態」として定義するのが難しい問題についていつも考えていたのだと思います。父はフリードマンの批判もしており、先ほど話が出たアロー、ソロー、スティグリッツといった経済学者も批判していますが、父親が亡くなった6~7年前、日本において経済学者で一番支持されているのはフリードマンだと聞いてびっくりしたのですが、実際のところはどうなのでしょうか。
宮川 貨幣供給量をコントロールして景気をコントロールするという考え方のもとにあるのは、やはりフリードマンの考え方です。日本は、アベノミクス以降に貨幣供給量を増やすようになりました。それはフリードマンの考え方とは若干違うとは思いますが、フリードマンを引用する日本のエコノミストが非常に多かったという意味では、フリードマンが復活したということだと思います。
話を社会的共通資本に戻しますが、アメリカのイエレン財務長官がダボス会議で、「モダン・サプライサイド・エコノミクス(現代版の供給重視経済学)」で社会資本、人的資本、環境投資の必要性について語っていました。これは、アメリカにおける社会資本がそもそも老朽化していることと関連しています。オバマ元大統領も、社会資本や環境のための資本、さらに教育を立て直すというようなことを言っています。これらは結局、社会的共通資本として宇沢先生が強調されたこととほとんど変わりません。アメリカであれば教育も含めた社会資本のどの部分が老朽化しているからお金を投入すればいいか、また日本であれば、環境や人材育成の分野にお金を投入するのかといった具合に、社会的共通資本を広く捉え、各国の制約があるなかでどこに注力するのかを選択していくということが起きているのです。先ほど触れたダスグプタやティロールをはじめとするさまざまな著作をみると、近視眼的な見方とは異なる、社会で本当に必要とされている政策や社会像のようなものは、欧米でも議論されはじめています。
酒巻 ありがとうございます。時代によって、いろいろな議論や流れがありながらも、社会的共通資本の今日的な意味というところにつながってきているということがよくわかりました。その背景には、アメリカの社会資本が老朽化しているということや、もう一つには不確実性が増して、社会・経済のいろいろな制度を見直す必要性に迫られる時代になってきたということもあるかと思います。
宇沢達 おっしゃる通りだと思います。私が接してきた経済学の流れ、アロー、ソローが頭に思い浮かびますが、その流れから見ると、社会的共通資本の理論というのは、必然的な考え方だと思います。シカゴ大学といえばフリードマンが一般的な評価のようですが、父はロイド・メッツラーという大変優れたケインジアンにシカゴ大に呼ばれたと聞きました。シカゴ大学にはそのほかに農業経済、人的資本を通して貧困の研究でノーベル賞を受賞したT.W.シュルツやフランク・ナイトがいました。ナイトの「リスク、不確実性、利益」(1921)はナイトの自由市場経済を分析した博士論文です。父もこの本を読んだ形跡があります。その本の中でナイトは、社会はいろいろな目的や興味を持った人間や組織が集まって形成されているので、社会経済全体が1つのシステムですべて賄えるとは到底思えない、ということをはっきり書いています。そしてその後のさまざまな研究(父もその一人です)や市場経済の分析の結果、市場均衡がこういう条件のもとで達成できるということがわかっても、その条件を整備することが難しく、さらにバランスを失ったときにどうするかといった問題もあります。物理学者のファインマンが有名にした、暗がりで無くしたことが分かっている鍵を見えるからといって明るい電灯の元で探しているメキシコの酔っ払いのジョークではありませんが、市場経済でカバーできない重要な部分に名前をつけた、というふうに思っています。

持続可能な社会的共通資本とは

酒巻 先ほど宮川先生からご示唆のあった、持続可能な社会的共通資本についてお伺いします。宇沢先生の著書『社会的共通資本:コモンズと都市』の中で、「市場経済制度のもとでは効率的な資源配分を実現することができるが、所得配分に関しては公正性を期待することは困難となる。」と書かれています。それに対して、社会的共通資本やコモンズでは、人間の生存にかかわる基本的権利に関しては公正性を基本とし、そのうえで効率性や持続性を担保とする仕組みであると考えておられたのではないかと思います。この観点から、社会的共通資本やコモンズを持続可能に管理する仕組み、つまり効率性と公正性を両立させるためのマネジメントについて、どのように考えればよいのでしょうか。
宮川 宇沢先生は公平性ではなく「公正性」という言葉を使っていました。市場経済においては所得分配の公平性や公正性を判断することができませんが、完全に公平な社会を考えていたわけではないという達先生のお考えに、私も賛成します。宇沢先生の言う公正性というのは、いわゆる文化的なものです。最低限という言い方がいいのかどうかわかりませんが、教育や文化といったことも含んでいるのだろうと思います。そういう意味での文化的で、さらに、ある程度の衣食住が足る生活を保障するというのが、社会的共通資本における公正性の考え方でしょう。
他方で、市場経済では効率性を追求していいと考えられています。すべての財を市場経済化してしまうと、効率性はマキシマムに達成されますが、一部の財では、価格の安定性を保障することなどが求められるために、効率性に関しては次善でよい、つまり生産水準が若干落ちても構わないというのが社会的共通資本の考え方です。
宇沢先生は、このような社会的共通資本のマネジメントには、市場経済における民間企業主体のメカニズムではなく、それとは異なるメカニズムが必要だと考えていました。それを東京大学教授の松島斉さんなどがゲーム理論を使って、単にアトミスティック・コンペティションという誰も主導権を握らないような競争社会ではなく、社会的な利益まで考慮して、社会的共通資本を供給する主体同士がある種の委員会方式を使ってそれらを提供する仕組みを考えています。アトミスティック・コンペティションや、または1人が供給しようということになると、フリーライダー、いわゆるタダ乗りの問題が起きてしまうので、供給主体が一堂に会して供給のメリットも含めて考えようというのが、松島さんの議論だと思います。ティロールも、そういう共有財、外部性のあるような財をどのように供給すればいいかということを考えているのだと思います。立命館アジア大学教授の茂木愛一郎さんに聞くと、オストロムも同様のお考えだったようです。
また持続可能性との関連では、具体的な例として、鉄道料金が挙げられます。利用者にとっては、タダがもちろんいいのですが、保線やメンテナンス、安全性などをきっちりと確保するためのコストに見合った料金は当然必要となります。このように持続可能性の観点からみると、市場経済の競争の仕方とは異なるガバナンスが、社会的共通資本の供給には求められるということだと思います。
酒巻 よくわかりました。達先生はいかがでしょうか。
宇沢達 宮川先生のご指摘は非常に大事なポイントだと思います。アトミスティックという言葉で思い出すのが、市場均衡の理論でパイオニア的な仕事をしたイエール大学の故アーヴィング・フィッシャーが、同大学教授で数学者・物理学者の故ギブスの教え子だったということを知ったときの驚きです。ギブスはミクロな行動からマクロを導き出すという統計力学を打ち立てた人の一人です。お互いにぶつかった時にエネルギーのやりとりを完全弾性衝突する理想気体について、統計力学が教えるところは大変興味深いと思います。例えば平均温度が20度のとき、すべての分子が同じ速度で走っているわけではなく、かなり高い速度で走っている粒子が幾つかあって、ほかはほとんど励起していない状態という分布になります。人間の社会というのはお互いに情報をやりとりして社会を構成しているために、理想的な気体の状態とは違うはずですし、違うように設計できるはずだと思います。社会的共通資本をどのようにマネージすべきかについては、宮川先生が言われたようなコミッティ方式があると思います。それに関連して、父が千葉県成田市の三里塚で農家の方といろいろお話ししていたときにとても驚いたことがあります。例えばレタスを作るのが上手な人は、余った分を早朝にほかの人の家に置いていくのです。こういったやりとりを通じて、この人は何を作るのが得意だというのがお互いにわかり、だんだん専門分化していくというところにとても感心していました。日本語で専門家というと国の認可を受けた、誰かからオーソライズされた人という意味として捉えられますが、そういった国が認可したものではなくて、信託されたと思っている人たちがお互いに情報を交換しながら情報を徐々に蓄積して専門性が高まっていくかたちです。父がフィデューシャリーと言う時にはヒポクラテスの誓いと共に、このような経験が一つのヒントになったと思います。

ローカルコモンズからグローバル・コモンズを考える

酒巻 どうもありがとうございます。宇沢先生が経済学及び経済に向き合うときには、先ほどの達先生のお話にもあった通り、常に現実に即して考え、かつ未来の社会を意識するという姿勢を大事にされていたと感じています。その意味で、歴史的な自然資本との関連で語られることが多いローカル・コモンズと、地球環境のような、ある意味、未来の社会をつくるためのグローバル・コモンズ、この双方にご関心を向けられたと思います。この2つの大きく異なるコモンズについて議論する際に気をつけるべき点、または2つのコモンズ間で参考にできる点についてお考えをお聞かせいただけますか。
宇沢達 父はよく、方言というのは非常に大事だと言っていました。それをローカル・コモンズとグローバル・コモンズの話に置き換えると、父としてはおそらくローカル・コモンズをまず基礎にすべきだと考えていたと思います。なぜなら、農業や林業は、その場所を熟知していないと不可能なため、ローカルに蓄積した知識、技能を溜めておく必要があるからです。このローカル・コモンズはグローバルにも影響するといった意味で存在意義があります。そういったかたちでグローバル・コモンズの考え方が出てくることが、父としては最もコンシステントな考え方だったのではないかと思います。
酒巻 ありがとうございます。宮川先生はいかがでしょうか。
宮川 達先生が言われたように、ローカル・コモンズというのはわかりやすいものです。宇沢先生が三里塚の農業の構想で例えられたように、フェース・トゥ・フェースで、お互いが経験し合いながら専門を見つけていって、その専門性ができるだけ発揮できるような生産集団をつくりましょうといったことだと思います。例えば水泳を例にとると、昔ははじめに専門種目を決めたのですが、その後まず個人メドレーをやってみてから、一番得意なところを伸ばしていくといったやり方もあると聞きました。つまり、一定の時間で共通の経験を持っていてそのうえで専門性を伸ばしていくということです。しかし、環境問題や生物多様性の問題などのグローバル・コモンズは、世界全体を相手にするために、お互いの技能やお互いの手の内や手札がよくわからないわけです。その点に関し、松島さんは、自分たちの手札を正直に出させるように工夫しましょうと提案されています。そうでなければ、どうしても概念が先に立ってしまい、お互いの意見の言い合いが続き、話がなかなかまとまりません。
日本の1990年代は、欧米に比べてNPO法人などはとても少なかったのですが、現在の非営利団体は、付加価値ベースでみると15%前後に増えてきています。宇沢先生が環境問題に着手されたとき、DBJ設備投資研究所内で、環境問題に取り組む担い手としてNPOが必要だと言われていましたが、日本も欧米並みに近づいてきているなと思います。ただ松島さんが想定している主体とは、必ずしもNPOやNGOなどではなく、利益が得られる、または外部経済を得られるような形で提供できる主体ということだと思います。主体側もそれなりに得をしながら、できるだけいいコモングッズを提供していくという、そういった仕組みを考えているのだと思います。
また、宇沢先生は限界原理に基づいて炭素税をかければ、貧しい国も豊かな国も同じ税率になるわけですが、そうではなく、一人当たりの所得に比例した炭素税をかけるべきだと提唱されました。宇沢先生は、各国の発展スピードの差を、限界原理つまり市場原理で調整することの難しさ、グローバル・コモンズを取り扱うことの難しさを当時から認識していました。従って、公平性ということを織り込んだ税制にしなければ、グローバル・コモンズは実現できないだろうということを見通されていたと思います。最近、この考えが見直されています。日経センターの岩田理事長も、宇沢先生の一人当たり所得に比例した炭素税を紹介されています。

無形資産から考える社会的共通資本

酒巻 ありがとうございます。それでは少し話題を変えて、宮川先生はこれからの経済を牽引する分野として、無形資産及びデジタル化への投資が重要になってくると提唱されています。21世紀に求められる社会インフラをみた場合、こういった無形資産やデジタル化の推進に関して、社会的共通資本の観点から留意すべき点についてお話しいただけますか。
宮川 無形資産については、ヴェブレンがかなり意識していたと思います。宇沢先生は、ヴェブレンが市場メカニズムをかなり鋭く批判をしていたと考えていましたが、資産を有形資産と無形資産とに分けて論文を執筆したのは、私の知る限りにおいてはヴェブレンです。私も驚きましたが、20世紀の初め学術誌『クオータリー・ジャーナル・オブ・エコノミクス』に「オン・ザ・ネイチャー・オブ・キャピタル(資本の特性)」という論文を寄稿しています。ヴェブレンは、無形資産は目に見えないものですが、市場経済での評価において、無形資産がいろいろな形で価格メカニズムや企業価値に混入してくると考えていたのではないかと思います。例えば無形資産の一つにブランドがありますが、一方で見せびらかしの消費というのは、その無形資産のブランドの部分に踊らされているので、消費者がその物の本当の価値、いわゆる使用価値のようなものをわかって買うというよりブランドのイメージに左右されているということが、ヴェブレンの著作に書かれています。それから、近代資本主義における企業価値に含まれる「のれん」をヴェブレンは強調しましたが、それも無形資産の一種です。その無形資産の価値が市場経済に混入してくるということを最初に見抜いたのが、ある意味ヴェブレンだったのです。
ところが1990年代後半からIT化が進み、ソフトウェアや新しい技術といった手に取れない、目に見えないものの価値というのを、ヴェブレンとは逆にプラス側に評価するようになってきています。また、無形資産そのものが、GoogleやAmazonのように我々にとっての生活インフラを提供するかたちになってきています。さらに、NGOや専門家の委員会といった経験のある人に任せるような領域までもが、巨大な民間企業が影響力を持つようになってきているという、宇沢先生が想定した社会的共通資本とは異なる状況が、現在の無形資産の大きさといえます。そういった現状を踏まえて、イギリスや私が参加しているヨーロッパにおける無形資産の勉強会では、GoogleやAmazonといったような巨大な民間の支配力のようなものを共有財化し、公的なところでマネージしようという考えが出てきています。研究者の間ではインタンジブル・コモンズと呼んでいます。
重大な問題の一つに、宇沢先生も気にされていた薬の問題があります。宇沢先生は、巨大な製薬会社が特許権を保有しているために、貧しい国にエイズなどの薬が渡らないという状況が、南北問題、つまり世界の所得分配を悪化させていると指摘していました。無形資産は目に見えないだけに、既に民間企業がインフラ部分を提供してしまっています。これをどうコントロールするかということが、今後より大きな問題になってくると思いますし、ヨーロッパではこの意識が高いと思います。
酒巻 ありがとうございます。データの公正な取り扱いを定めたGDPR(EU一般データ保護規則)の議論はヨーロッパから出てきましたし、自然資本であるコモンズでは、共有資産である地下水も重要なテーマでした。先ほど、ヴェブレンの話が出ましたが、達先生から宇沢先生のヴェブレンに関する研究とその意味するところについてお聞かせください。
宇沢達 ヴェブレン関連は大変重要だと思いますので、個人的な思い出話を交えながらちょっと別の観点からお話ししたいと思います。家の中でヴェブレンの話はよく聞きました。具体的には父がスタンフォード大学にいた頃、ヴェブレンの義理の娘さんが大家さんだったという話をよくしていました。conspicuous consumption(顕示的消費)という言葉も、七輪でサンマを焼いているときに、「これは猫に対するconspicuous consumptionかもしれないな」と冗談を言ったりしていました。それから父が非常に好きだった言葉が、idle curiosityです。怠けた好奇心ではなく、ある利益とかある目的のための好奇心ではない、純粋な好奇心という意味です。学生を指導する立場になった時にも、テーマを与えることを嫌ったのもそのためだと思います。あるテーマについて論文を一緒に読んでいくなかで学生個人個人が自分の興味を伸ばしていくことを目指したのだと思います。アカロフさんと話をした時にも自分で考えたことを話しに行くとその考えをきちっとした形にするまで付き合ってくれた、と言っていました。また、workmanshipという言葉も大事にしていました。簡単に日本語に訳すのか難しいのですが、職人気質や何かをきっちり完成させようという欲望、といった意味合いかと思います。何かを完成するまでは何度も繰り返し、それを磨いていくようなタイプのものも、父は非常に大事なこととして捉えていたと思います。
他方で人間には、他人を妬んで争うemulationや、predationという捕食本能もあります。私は父の考えとヴェブレンの考えの間の関係を理解するためにはヴェブレンの言う五つの本能(emulation, predation, parental bent, idle curiosity, workmanship)をまとめて考えることが重要だと考えます。以前、何かの集まりの折にヴェブレンの五つの本能の話をしたところ、参加していた保育園の保母さんが自分の経験と非常によくマッチする、という話をしてくれました。まず、自分の真似をされた(emulation)、自分の物を取られた(predation)といったことがきっかけで子ども同士のけんかが起こるらしいのです。そしてidle curiosity、workmanship、parental bent(自分に頼る者を保護する本能)といったものは確かに子供たちの中にあるがはっきりしてくるのはかなり後から芽生えてくるようです。確かに「お兄ちゃんだから弟、妹を大事にしなさい」という言葉をよく聞きます。市場経済をメインの道具として考えるとどうしてもemulation, predationを刺激することになるでしょう。はじめの方でお話ししたアローの問題も発見、発明の原動力となるidle curiosity, parental bent, workmanshipといった「本能」をどのように扱うかを考えるのが重要だと思います。ヴェブレンの考えを現代的な経済学として定式化するのは大変かもしれませんが分析に役に立つように思います。
例えば宮川先生のお話しにあった水泳のお話、大変興味深いと思います。競争も大事ですが、水泳に限ってもその人がどの種目に向いているかはやってみないとわからないですし、そもそも水泳が好き、歩くのが好き、走るのが好きというのは、人によって違うわけです。そして競争で勝つことを原動力とするのでは続かないように思います。続けていくためにはそのプロセスを楽しんで、プロセスを楽しみながら何か発見があるという必要があろうと思います。これを経済の観点でみた場合、市場経済という形だけで物事を進めようとすると、価格に非常にセンシティブな人たちがその本能を極端に刺激することになり、結果として全体の福祉が下がるのではないかと思います。大学の偏差値ランキングにも通じる話です。今こそヴェブレンの考え方を見直して、いろいろなタイプの人たちがそれぞれの形で活躍する道を切り拓いていけるようにすることが非常に大事であり、父の考えに近いと思います。
宮川 そうですよね。社会的共通資本で宇沢先生も強調されていたように、教育にももう少し目配りが必要です。政府がお金を出せばいいという単純な話ではありませんが、日本は、OECDの中で教育費に対する政府の支出が低いですし、公的な研究費の割合も非常に低位置に留まっています。一般の人にも自助努力を求められますし、教育社会学の学者もそれでいいと思っているわけではないですが、アンケートを取るとそういう結果が根強く出てくるようです。このように、教育に関して公的に支援するという考え方があまり出てこないため、教育政策に対する一般の人の関心が相当低くなっています。教育はそれぞれの家庭の方針でやればいいという考えが浸透しているように思います。
酒巻 社会的共通資本の重要な分野である教育の話題にも触れていただき、どうもありがとうございました。最後に編集から質問をさせていただきます。

グローバル・コモンズ、再び

編集 宮川先生は約20年前、2021年にノーベル物理学賞を受賞した眞鍋淑郞先生と宇沢先生の対談(『日経研月報』1999年1月号に掲載)を企画・開催されておられます。そのときの対談の主なテーマはCOP3(1997年12月に京都で開催された気候変動枠組条約第3回締約国会議、いわゆる「京都会議」)で、それはある意味でグローバル・コモンズの話でした。今の状況を宇沢先生がご覧になったとしたら何とコメントされると思われますか。
宮川 改めて当時の『日経研月報』を読むと、温暖化について今でも通じる貴重な話をされていて、やはり眞鍋先生も宇沢先生と同じく非常にタフな研究者でいらしたという気がします。どんどん反論してくれたら、どんどん新たな課題を設定し、シミュレーションを行い実証していく、と発言されていました。
そういった意味で、宇沢先生は環境問題についても一流の研究者とお付き合いされてきたと思います。そういうところを見極める目と、そういった人の話を粘り強くトレイスしていく。それが環境問題においても道を誤らず、ブレないということなのだと思います。20年前から今に通じる議論をしていたのです。例えば、平均気温の議論がありますが、その当時から眞鍋先生や宇沢先生は、気温の分散や干ばつの回数、またどのような指標を採用するのか、そしてそういったことがどうして起きるのかを考えていました。単に気温の上昇だけに目を向けるのではなく、二酸化炭素が増えることによる地球の大気の変化を見る、といったことを丹念に議論しています。ESG投資で単に価値が上がった、下がったという議論ではなく、多少難しくとも地球温暖化がもたらす現象とは何かといった多様な現象を捉え、そこから判断するということが重要です。私が編集した著書で触れたコロナの指標についても同様で、単純な指標のみを基にした考えは慎むべきで、さまざまな指標を出してみて、そこからじっくり議論することが大事であり、さらにそういった指標を見極める目も必要だと思います。金融機関でお金を貸す仕事でも、単純な財務指標だけではなく企業を深く見る目が重要だと思います。コモンズの委員会で誰が舵取りをするかという、そういう専門家を見る目というか、いい人を見る目というのを養うことから始める必要がありますね。
宇沢達 先入観なしに調べていこうという父の姿勢は、父が理系出身ということも関係していると思います。気候変動関連や気候の専門家の先生からは、「お父さんが日本で最初にCO2の問題についての議論を始めてくれたので、我々もとても勉強になりました」ということを言われます。問題に取り組んでいくうちにその相貌が変化するのはよくあることです。いろいろ調べて我々の見方も深め、考えていくことが大事だと思います。父は向かっていく方向を定め、迷いながら進んでいくことを好んだように思います。アフリカの諺に「ある目的地に行きたいのなら、とにかく早く一人で行け」、「ただ、遠くを目指すのであれば仲間を作って行け」があります。父は、仲間を作って目標を設定するためには、問題の選び方が大事になってくると考えていたのだと思います。
酒巻 議論はつきませんが、そろそろ時間も迫ってきていますのでこのあたりで終わりにさせていただきます。本日はどうもありがとうございました。

著者プロフィール

宇沢 達 (うざわ とおる)

名古屋大学大学院多元数理科学研究科 教授

1959年生まれ。数学者。経済学者宇沢弘文の長男。名古屋大学大学院多元数理科学研究科教授。専門は表現論の幾何的側面。
21世紀COEプログラム「等式が生む数学の新概念」(2003-2005)においてプロジェクトリーダーを務めた。師はVogan-Zuckerman理論、Zuckerman functors、Knapp-Zuckerman理論で知られるグレッグ・ズッカーマン(英語版)。
1985年東京大学大学院理学研究科修士課程修了、1990年米国イエール大学数学科博士号取得、1991年東京大学理学部数学科助手、1992年東北大学理学部数学科助教授、1998年立教大学理学部数学科助教授、2002年名古屋大学大学院多元数理科学研究科教授、現在に至る。

宮川 努 (みやがわ つとむ)

学習院大学経済学部 教授

1978年3月 東京大学経済学部卒業。1978年4月 日本開発銀行(現日本政策投資銀行)入行。1989年6月 日本開発銀行設備投資研究所主任研究員。1999年4月 学習院大学経済学部教授(現在に至る)。2006年3月 経済学博士(論文博士)取得(一橋大学)。2006年7月 Center for Economic Performance, London School of Economics客員研究員(2007年1月まで)。2009年4月 学習院大学副学長(2011年3月まで)。2015年4月 学習院大学経済学部長(2017年3月まで)。2015年5月 統計委員会委員(2021年10月まで)。
主要著書 『コロナショックの経済学』(編著)(中央経済社、2021年)、『生産性とは何か』(ちくま新書、2018年)、『インタンジブルズ・エコノミー』(淺羽茂氏、細野薫氏と共編)(東京大学出版会、2016年)、『Intangibles, Market Failure and Innovation Performance』(Bounfour氏と共編)(Springer、2015年)、『長期停滞の経済学』(東京大学出版会、2005年)、『失われた10年の真因は何か』(岩田規久男氏と共編著)(東洋経済新報社、2003年)

〈聞き手〉 酒巻 弘 (さかまき ひろし)

一般財団法人日本経済研究所 専務理事