『日経研月報』特集より

自然とのかかわりをどのように取り戻せるか~現代日本社会への自然アクセス制の示唆~

2022年11月号

三俣 学 (みつまた がく)

同志社大学経済学部 教授

はじめに―高まる緑や水辺への欲求

緑や水辺で一人静かに時間を過ごしたい人たち、友だちと語らいたい人たち、体を思う存分に動かしたい人たち、そういった多くの人たちのさまざまな欲求を、オープンスペースはながらく満たしてきた。コロナウイルス感染症が一気に拡大した2020年、多くの国々でロックダウンや緊急事態宣言が発令され、長い自宅生活を余儀なくされたことで、心身の不調を抱える人びとが急増した。「ほんのわずかな時間でも」と、多くの人たちが自宅近くの公園などのオープンスペースに向かった。たとえば、スイスでは、チューリッヒ市をはじめ都市公園に、ソーシャルディスタンスが保てないほどの人たちが集まり、閉鎖される事態にもなった。これを報じたKleinschroth et al.(2020)は、今次のコロナウイルス感染症が、オープンスペースだけでなく、自然一般に対する都市住民の意識変化をもたらす可能性を指摘し、より自然度の高い都市づくりに向かう契機とする必要性を説いている。本稿は、オープンスペースなどの万人のアクセスが許される緑地や水辺場について、コモンズ論との関係から、その現代的意義を考えてみたい。

1. コモンズ論と自然アクセス制の接点

筆者の知る限り、国内外のコモンズ論において、オープンスペースに関する研究は、それほど大きな位置を占めてはいない。その疑問を解消するには、黎明期のコモンズ論を少しばかり知る必要がある。有限な環境資源を持続的に利用するためには、権力に背景を持つ公的管理か市場に基づく私的管理の二つしかない、という処方箋が社会科学において支配的であった。高名なG.ハーディンの「コモンズの悲劇」論文(1968年)がその考え方のベースにある。しかし、1970年代後半から、このような公私二分法の解決策に対して、現実世界では、公的にも私的にも収れんされない地域共同体つまりコモンズが、今日なお重要な役割を果たし続けていることが、数多くの研究から明らかにされていった。その「発見」は、多くの学問分野の問いを惹起した。それは、持続してきたコモンズはいったいどのような条件で生成し機能してきたのか、さらには現代社会において機能しうるか、という問いである。議論を先導した米国のエリノア・オストロム(Elinor Ostrom)らの研究によって、それらの条件(設計原理:design principles)が明示されていった。なかでも、ルールの違約者への罰則の履行やメンバーによる共同資源の維持管理(労働や費用負担)の履行につながる基本的条件として、誰がコモンズの権利者であるかが明白であること、つまり「メンバーシップ」の重要性が示されたのであった。メンバーが村人などに厳格に限られている共同体所有制(communal property)がこれに該当し、不特定多数の人たち各々が望むに応じて資源利用のできるオープンアクセス制とは厳格に峻別される必要性が説かれた。ハーディンの描いた「コモンズの悲劇」は、オープンアクセス制下で顕著に起こるという見方が支配的になり、メンバーシップのコモンズが「第三の可能性」を持つ典型的コモンズとして再評価されていったのである。しかし、公有地はもとより、メンバーシップがより明確な私的所有制度下であっても、所有者以外の不特定多数の人びとに資源利用の道が開かれている場合もありうる。このようなケースでは、所有者とアクセスする人らが、血みどろの闘争を繰り広げたあげく、上述したオープンアクセスの悲劇に至ると考える人が多いだろう。
ところが、現実世界に目を向けるとき、必ずその結末に至る、とは言い切れない。「万人に利用が開かれている」という意味では、オープンアクセス的性格があるにもかかわらず、資源枯渇や破壊などの悲劇的結末を回避しながら、万人が自然の恵みを享受できる世界が、北欧や中欧諸国には広がっているのである。これらは中世以降引き継がれてきた仕組みが多いが、英国(イングランドやウェールズに限定)のように、19世紀に入って、それまでの囲い込み路線(私有化による公衆の排除)を一変し、万人の自然アクセスを拡張し続けている国もある。「新しいコモンズ」を創りだす大転換といっても過言ではない。興味深いのは、人間の環境資源に対する利用圧の低い地域にのみ限定し、このような自然アクセス制(注1)を採用しているのではなく、アクセスの集中する都市を含む国レベルで、自然アクセス制を継承あるいは創出し、さらには拡張している国々がある、ということである。次節で、自然アクセス制を広げてきた英国の展開を素描してみよう。

2. 万人の自然へのアクセスを許容する世界を広げてきた英国

英国の自然アクセスの制度化は、19世紀中葉にその萌芽がみられる。都市・農村を問わず、領主層の所有者とその近隣で暮らす入会権者(commoners)のコモンズとしての牧草地や緑地が広がっていた。1236年マートン法の制定以降、所有者である大規模領主層が、農民の入会権を容易に解消しうる形での法整備がなされ、前者が後者を締め出すエンクロージャーが進んだ。しかし、この流れは産業革命以降、変化を遂げた。都市部での環境破壊や生活・労働環境の悪化が顕著になるにつれ、入会権者だけでなく都市住民を含む国民全体が、地主による横暴なエンクロージャーを阻止しはじめたのである。その結果、1866年首都圏コモンズ法の制定を皮切りに、土地所有者によるコモンズ開発を困難にする法整備が進められることになった。興味深いのは、同時に、コモンズに対する農民の入会権が保証されるだけでなく、万人のコモンズへのアクセス権もまた設定されていく方向へと展開したことである。一方で、J.Sミル、オクタビア・ヒルなどが啓蒙活動を展開し、他方では、都市の労働者たちが意図的に不法侵入を繰り返し、地主の囲い込みに徹底抗戦して英国全体の世論を大きく動かした結果、この流れが決定的になったのである。2000年には「歩く権利法」(CROW:Countryside and Rights of Way Act 2000)が制定され、さらに同法に基づき、2009年には水辺(海岸線)にもアクセス権が拡張した。これにより、現在の英国は、歩行道(public footpath:約188,700㎞)をはじめ(写真1)、コモンズ登記法下で登記されたすべてのコモンランド(約131万4000ha)や「標高600m以上に位置する場所」など、歩く権利法で規定される「アクセスランド」上を自由に歩き回ることができる(写真2)。その原則はあくまで歩くことであり(注2)、自然を愛でる行為に限定されている。そういったアクセス権の一対象であるコモンズの少なからずが、SSSI(Sites of Special Scientific Interests)やAONB(Areas of Outstanding Natural Beauty)などの保護区等の指定を受けるほど、豊かな自然環境を有している(写真3)。



このように英国では、所有者の土地所有権(顕著な利用はハンティングの権利)、主として農家の放牧権をはじめとする入会権、そして都市住民を中心とする自然を愛でるためのアクセス権が、同一の土地空間上に輻輳している(注3)。このような複数主体による重層的な土地利用については、「権利の束」(bundle of rights)という概念で解釈されうる(Schlager and Ostrom, 1992)。たとえば、①アクセス・採取権、②管理権、③排除権、④譲渡権を包括的にもつ「所有者」(owner)がいる一方、①のみを持つ「許可された利用者」(authorized user)、①と②を持つ「管理関与者」(claimant)、①~③を持つ「利用権者」(proprietor)がおり、それぞれの主体が権能に従った行為を基本的に相互に承認しあって成り立っている、という見方である。

3. 強固なメンバーシップの光と影

英国に対して、日本はどうであろう。日本には、英国のコモンズに類する制度として「入会」があり、中世以来の歴史を持つ(注4)。山野への依存度が高く、農山村民の暮らしに直結していた入会権は、1898年、民法上の権利(強靭な私的権利)として規定され今日に至っている(注5)。それ以降現在まで、万人の自然アクセスを許容するような変更はなかった(注6)。つまり、少なくとも法制度的には強固なメンバーシップが維持され続けてきたのである。メンバーシップにおいてその権利性をより強める契機となったのは、入会林野における人工林造成(森林資源の商品化)であろう。とりわけ、戦後の拡大造林の波は、それまで緑肥や薪の供給源として自給的に利用されていた入会林野にもおよび、多様な広葉樹の雑木林はスギやヒノキの単一樹種の経済林へと一変した。より高い効率性を求めて、林地の大規模集約や大型重機の導入が進んだ。それらへの投資に見合う収益の確保が一大命題となる。この方向を極めようとすればするほど、万人のアクセスを拒む森になるのは必然であろう。林業収益がある程度確保できた1980年ころまでは、「利用(人工林から得る共益を受ける権利)と管理(人工林施業に必要な労働)」の好循環が保たれ、入会林野からの収益が、地域全体の利益(共益)を増進するために使われた(注7)。オストロムらの分析どおり、メンバーシップがコモンズの良好な利用や管理につながっていた、とみてよい。日本の村々では、そのようなメンバーシップの利を活かし、入会林野が商品化されてもなお、経営に適合的な私的経営主体(私的所有)に簡単に転換・解消せず、地域共同の力によって村の共益を増進し続けた点は興味深い。
ところが、このような市場経済に支えられた好循環は、グローバル林業で日本林業が劣位となるにつれ、衰弱しつつある。義務として長年続いてきたメンバー総出による森林管理の手が止まる村も多くなった。管理行為の消滅は森の放置に結びつき、無関心に至ることが多い。この放置と無関心から生じる森林の過少利用問題は、単に資源や経済の枠を超えた問題になりつつある。たとえば、若年層の自然体験が極端に減少しており、それが世代を超え継承されていく恐れがある、という研究が報告されている(Soga and Gaston, 2016)。過少利用問題は、入会林野に限らず私有林も同様であるが、その根底部には「強力なメンバーシップ(排除)」の問題が潜んでいるように思われる。

4. 自然アクセスの意義を考える―生態系の持つ多様な機能と価値を見直す

筆者は、自然アクセス制を無批判に賛美するつもりはないし、その安易な日本への導入を図ればよい、などというつもりもない。現に、自然アクセスには、オープンアクセス的性格ゆえの課題が存在する(表1)。ここでは、それら諸課題には踏み込まず、特に森林を念頭におき、過少利用時代の日本に対する自然アクセス制の含意について、少しばかり考えてみたい。

その際、既存のオストロムらの理論、生態系サービスの概念、各アクターが自然に期待する価値や機能の「ズレ」に着目することが一つの助けになる。
既存のオストロムらの理論から判明していることは、共有・共用する財から得られる収益が管理に要する費用を上回る限り、コモンズのメンバーは、管理に必要な労働や費用を提供する可能性があるということである。この前提が満たされていた時代の日本の入会は、村人たちが共同作業を通じ、村全体の共益増進を図ってきたが、現在その前提は崩れている。グローバル木材市場という外部インパクトに対し、コモンズは容易に対抗できず、放置と無関心の状況は深刻さを増している。
一方、森林をはじめ自然の価値については生態系サービスの考え方が浸透してきた。木材生産に代表される供給サービス、レクリエーションや癒しなどに代表される文化サービス、土砂流出防止に代表される調整サービスである。その基底部をなすのは健全なエコシステムで基盤サービスと呼ばれる。森林をめぐりこれらサービスを受けるアクターが多様に存在している。たとえば、森林所有者、深い森の一滴の水から生まれる川の流域に暮らす住民、行政、企業、NPOなどである。これらのアクターは、生態系のどのサービスに価値を見いだしやすいであろうか。森林所有者は供給サービスに価値を見いだし、人工林造成に投資してきた。清涼な空気や防災を求める都市住民は森林の調整サービス、あるいは、散策によって得られる癒し効果つまり文化的サービスを求める向きがより強いであろう。環境NPOなどは、生態系全体の回復を目指すべく、基盤サービスの改善や修復に価値を見いだし活動するものも多い。
人間を含む生態系の仕組みは、こうしたアクター間にある「ズレ」を巧みに利用することで持続してきた。つまり、ある生命にとっての不要なものが他の生命にとっては必要不可欠であり、その相互補完的な連鎖関係が、多様な生命を育んできたのである。豊かな生物多様性を回復したいのならば、それを著しく貧弱にしてきた人間の側がまずその仕組みを用意しなければならない。それゆえ、自然の多様な機能や価値を、多様な主体が分け合う自然アクセス制の展開から学ぶことは多いであろう。

おわりに

イタリアやフランスでは、自然環境を含めた共通財の議論が活発であるという。その議論は、「将来世代も含む全ての人の人格の自由な発展、基本的諸権利の行使のために不可欠な財であり、それゆえ排他的所有や国家主権の反対物とされ、全ての人に帰属し、全ての人がアクセスする権利をもつ」(高村,2017,p. 17)ものを、「共通財(beni comuni, bien commun)」として位置づけようとする所有権論の新展開であり、民法学者によって、社会・政治的要請にこたえる形で進んでいる(高村,2017)。そのような議論の背景には、本来すべての人びとが等しく享受すべき財やサービス、すなわち宇沢弘文の社会的共通資本が「官による私物化」(公文書改ざん・破棄など)や「公営事業の不適切な民営化」(海外の水道事業の民営化や公営施設における商業化など)により囲い込まれたり、棄損されたりしている事例がある。自然アクセス制は、この共通財や社会的共通資本のうち自然環境を商品として、私物化しようとするあくなき誘因を抑え込み、「みんなの自然」を「みんなのもの」として引き継いできた先人からの贈りものである。
本稿で示した通り、所有者にとっての森林の供給サービス低下状況にある今、先述したアクター間の「ズレ」を結び直そうとする森林ボランティア活動や漁民の森活動などの試みとともに、社会的共通資本や共通財理論、そして21世紀の今を生きる各国の自然アクセス制の具体的な現場からの学びを通じて、新しいコモンズを創造していくことが切に求められている。そういった方向へのシフトは可能であると考えたい。先人から引き継ぐばかりでなく、英国のように、コモンズは「時代の課題」に応じて創られていくものだからである。

【参考引用文献一覧】

Kleinschroth, F., and Kowarik I. (2020) “COVID-19 Crisis Demonstrates the Urgent Need For Urban Greenspaces” Frontiers in Ecology and the Environment, 18(6), pp. 318-319.
三俣学(2019)「自然アクセス制の現代的意義―日英比較を通じて」『商大論集』第70巻,第2・3号,pp. 93-116.
三俣学・齋藤暖生(2022)『森の経済学―森が森らしく、人が人らしくある経済』日本評論社
Ostrom, E. (2009) “Beyond Markets and States: Polycentric Governance of Complex Economic Systems”, American Economic Review, Vol. 100(3), pp. 641-647.
高村学人(2019)「共通財という新たな所有権論」『法律時報』日本評論社,Vol. 91(11), pp. 13-18.
Saito, H., Mitsumata, G., Bergiusc, N., and Shimada, D. (2022) “People’s Outdoor Behavior and Norm Based on the Right of Public Access: A Questionnaire Survey in Sweden”, Journal of Forest Research.
Schlager, E., and Ostrom E. (1992) “Property Rights Regimes and Natural Resources: A conceptual Analysis”, Land Economics, Vol. 68(3), pp. 249-262.
Soga, M., and Gaston, K.J. (2016) “The Extinction of Experience: the Loss of Human-Nature” Frontiers in Ecology and the Environment, 14(2), pp. 94-101.

(注1)自然アクセス制は、「所有の如何を問わず誰であっても自然にアクセスし、一定の活動をなしうる権利や制度が社会的に容認されている体制」(三俣,2019,p. 100-101)と定義しておく。
(注2)他にも、観光する、バードウォッチを楽しむ、走ることなどが例示されている。歩く権利には馬や自転車に乗ることや採取行為は原則として含まれない。
(注3)紙幅の制約上、本稿で紹介できないが、北欧諸国ではアクセス権の内容はさらに広く、散策する以外にも、ベリーやきのこ類の採取、キャンプ、火気の使用、カヌーでの川遊びなど、より野外生活を広く楽しむことができる。この慣習は、スウェーデン語で「allemansrätten」(万人権)と呼ばれる。実態等の詳細については、Saito et. al(2022)を参照されたい。
(注4)海外のコモンズ研究においても、入会は早くから注目されてきた(McKean, 1986)。
(注5)その一方で、政府は、封建遺制として入会を捉え、その解体を目指す入会消滅政策を試みてきた。
(注6)万人の浜辺へのアクセスする権、すなわち入浜権を主張することで、浜辺の乱開発阻止を試みた入浜権運動が存在するが、司法の場でこの権利性は否定されている。
(注7)共益の具体的内容は、良好な入会林野の維持、地域内諸組織への活動支援、農道や林道整備などであり、それぞれ自然資本、制度資本、社会資本に該当する。伝統的な村自らが、地域の社会的共通資本を、「コモンズの森の恵み」によって自ら供給してきたのである(三俣・齋藤,2022)。

著者プロフィール

三俣 学 (みつまた がく)

同志社大学経済学部 教授

1971年、愛知県生まれ、滋賀県育ち。
同志社大学経済学部教授。兵庫県立大学国際商経学部を経て現職。
専門はエコロジー経済学・コモンズ論。日本の入会から北欧の万人権まで、共有や共用のもつ現代的意義や役割について研究を続けている。著書に『森の経済学―森が森らしく、人が人らしくある経済』(日本評論社、2022年、齋藤暖生との共著)、『都市と森林』(晃洋書房、2017年、新澤秀則との共編)、『エコロジーとコモンズ』(編著:晃洋書房、2014年)などがある。