地域の現場から

震災遺構は観光資源たりうるか

2023年1-2月号

松岡 基嗣 (まつおか もとつぐ)

株式会社日本政策投資銀行 東北支店長

2022年の夏から秋にかけて、岩手、宮城、福島三県の太平洋沿岸地域を集中的に訪れた。
仙台への引っ越しを終えた翌日、手伝ってくれた家族を見送った後、どうしても見たかった荒浜小学校に行ってみたのが始まりだった。
その後、『震災遺構』として定義されるサイトが30箇所、そのうち学校校舎が遺構の主体となっているものが7箇所あることを知った(注1)。
冬が来る前に、行かれる限り行っておかなければならぬ。訪問は、主に週末を利用した活動であった。個人的な思いに過ぎないが、出張のついでではなく、手ガネで、それ自体をデスティネーションとして行くことにこだわった。
仙台を起点とした移動であれば、宮城県内のサイトは公共交通機関とレンタカーを利用し尽くすことで日帰りできる。石巻市、南三陸町、気仙沼市。岩手県では陸前高田市がその限界であった。そこから先は、久慈市から入り宮古市で一泊しつつ野田村、普代村、(宮古市)田老を巡る。日を改めて仙台から北上し釜石市で一泊し山田町、大槌町、大船渡市、また日を改めて仙台から南下し浪江町、山元町を日帰りと、レンタカーに乗り三陸道・常磐道を駆使することでおおむね訪れることができた。
(以下は、当地にやってきたばかりのよそ者の感想です。)

5つの小学校、1つの中学校、1つの高等学校

校舎が震災遺構として多く残されたのには、いくつかの背景があるだろう。
・被災地の多くは海に近く、集住地域に必ずある公共施設であった。
・周辺の民家より堅固な建造物であった。
・地域住民、とくに教え子とその家族の皆さんにとっての心の拠り所であり、実際の避難訓練でも中心的な役割を担っていた。
・人生でだれもが経験する学校生活の記憶があり、見れば直ちに「自分事」として共感できる素地がある。
津波の被害のありようと、苦難への対処・教訓はそれぞれ異なり、それぞれが際立っている。こぎれいに一覧にまとめようとしては礼を失するだろう。筆者が訪れた順に紹介する。設備名は当時の旧名である。

〈宮城県仙台市立荒浜小学校〉

震災の2週間前。前震が続くなか、校長の決断で避難マニュアルを変更。体育館への一時避難を省略し、直ちに最上階(4階)へ駆け上るルールとした。結果的に体育館は津波によってすべて失われたことから、校長の判断の正しさが実証された。生徒のみならず近隣からの避難住民も多く救われたこと、屋上から自衛隊ヘリを使った避難が実施されたことも正しく記憶されるべきであろう。

〈宮城県石巻市立大川小学校〉(後述)

〈宮城県石巻市立門脇(かどのわき)小学校〉

生徒・教師は繰り返し避難訓練を実施しており、当日も地震直後から裏山(日和山)へ整然とのぼり、難を逃れた。一方、石巻市は犠牲者が突出して多かった自治体である。沿岸のタンクが津波で流された結果、夜にかけて浸水地域全域で発生した火災(津波火災)の傷跡が校舎内・あるいは外壁に残っている。
現在は伝承館を併設。イギリス出身で震災後当地に残る決断をした館長に会うこともできる。

〈岩手県陸前高田市立気仙中学校〉

気仙川は気仙沼市とは別の地域を流れる。その河口近くに校舎がある。地震後校庭に集合、想定より高い津波予報が発せられたことから、二次避難所と想定していた気仙小学校(結果的に津波が到達)を断念、教師により確認されていた険しい山越えルートを選択した判断が奏功し、全員が無事であった。津波は3階建て校舎の屋上を越えた。
「奇跡の一本松」などと共に「高田松原津波復興祈念公園」として一体整備されている。

〈宮城県立気仙沼向洋高校〉

課外活動中で生徒の多くは校舎外にいたため、避難場所とされていた高台にある地福寺へ移動したが、念のためさらに高台にあった陸前階上(はしかみ)駅、さらに上の階上中学校まで逃げることで、最終的に全員が無事であった。
データ保存等のため校舎内に残った教職員は3階への避難を想定していたところ、念のため4階、さらに屋上へ避難。結果的に4階床から1mの高さまで津波が到達した。
事前に周到に準備されたマニュアルを守る一方、それを破ってさらに安全な場所を目指す判断・行動が印象的。現在は県が主体となり「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」として整備・公開されている。

〈福島県浪江町立請戸(うけど)小学校〉

2階建て/屋上の無い校舎でもあり、早々に行動を開始し2㎞離れた裏手の大平山へ避難。津波後に通りがかったトラック運転手さんの機転で全員を役場まで移動、安全な場所で夜を明かすことができた。

〈宮城県山元町立中浜小学校〉

ここも2階建て校舎。津波の到達が想定より早い、との報を受け、離れた避難場所への移動を断念、教師のみ知る屋上の倉庫へ避難、一夜を明かした。もともと周囲から2m嵩上げした地盤に建設されていたことも幸いし、津波はかろうじて屋上まで到達せず、犠牲者は出なかったが、それでもなお、校長先生は判断が正しかったのか、今も自問し続けている。

〈宮城県石巻市立大川小学校〉

避難経路や意思決定方法が確定していなかったことに起因する判断遅れにより、多くの犠牲者を出すことになった場所である。自治体の責任・賠償を求めた裁判は控訴審まで争われ、上告受理申立て棄却により確定した。海抜1m地帯に立つ2階建ての校舎跡。隣接して設置された記念館では、裁判の経緯に加えて、『何が間違っていたのか』という問題意識・教訓について、驚くほど率直に記録され、展示されている。この最終形に至るまでの関係者の皆さんの苦悩葛藤を正しく推し量ることはできないが、それらを乗り越えて辿り着いた率直さに深くこうべを垂れる思いがした。

それ以外の遺構も、大小さまざま考えさせられることが多い

〈旧女川交番〉

石巻線終点、女川駅は震災後7m嵩上げされ再生した。駅前から海岸に向けた地区は、現在商店街「シーパルピア女川」として再整備され、道の駅「ハマテラス」とともに地区内外の客を集めている。そのメイン通りの先、海岸との間に、転倒したままの鉄筋コンクリート建築物が残されている。側面から突き出した基礎杭は、津波に先立つ地震により地盤の液状化が起こっていたことを物語っている。

〈時計塔2題〉

〈仙石線野蒜駅〉

駅周辺は鳴瀬川河口に隣接した低地である。川を挟んだ北側にある航空自衛隊松島基地を含む広範囲が水没した。野蒜駅は震災後線路ごと高台に移設されているが、旧野蒜駅舎とプラットフォームはそのまま残され、「東松島市震災復興伝承館」として整備された。周辺地は公園となっている。

〈田老防潮堤/たろう観光ホテル跡〉

昭和54年のこと。田老地区には、「万里の長城」と揶揄されながらも高さ10mの長大な防潮堤が築かれた。市街地は防潮堤に隣接する形で発展してきたのだが、今回の津波はそれをあっさりと越え、甚大な被害をもたらした。
防潮堤ほど近くにあった「たろう観光ホテル」は4階まで浸水、1、2階は鉄骨を残して失われた。遺構としてそのままの状態で残されている。

〈普代村水門〉

昭和22年から10期40年務めた村長は、明治・昭和の津波被害を教訓に、それらよりも高い水門の建設に固執した。住民の批判に耐え執念で建設した水門は、同じく近隣に建造された防潮堤と共に今回の津波をよく防ぎ、村内被害を最小限に食い止めた。
これは字義通りの意味での遺構ではない。現在も現役で稼働している。

モノの持つ凄み、周囲との違和感

遺構は語らないが、見る者に重い課題を突きつける。鉄骨の歪み、地上3階に流れ着いたままの自動車、寄せ波引き波の連続で失われた壁や窓、津波の理不尽な力に文字通り翻弄された現場がそのまま残されていることで、私たちは否応なく当時の状況を想像する。
いずれもかつては住居と賑わいのあった地域であるが、それらの多くは震災後居住禁止区域に指定された。あるいは公園として整備され、あるいは活用を模索するなかで整地されたままとなっている。そうした場所に居つづける遺構は、見方によっては「違和感のかたまり」である。しかし、その違和感を手掛かりに、その場所がかつて市街地であったこと、地域住民の生活がそこに存在していたことに思いを馳せることができる。違和感こそが重要なのだ、と改めて思う。

〈南三陸町防災庁舎〉

津波の到来を直前まで放送し続け、犠牲となった職員がいたことで知られるようになった構造物である。現在は公園の一部として整備されている。傍らを流れる志津川に新たに盛られた築堤の高さ、芝と植樹に囲まれて立つ違和感は、当時の津波の到達水位の凄まじさや、失われた周辺の市街地の存在を強く喚起する。

全ての遺構は、慎重な解説を必要としている

来訪者がその場で感じた違和感を深堀りせず、腹落ちしないまま終わらせないためにも、遺構は解説を必要としている。校舎の中に安全な見学路を作り解説板を置く、教室を活用して当時の関係者(教職員、自治体・町内会の方々)のインタビュー動画・写真を行程に埋め込む、語り部の方々によるガイドツアー、さまざまな試みは、意識的な控えめさとも言うべきか、誇張を排し慎重なメッセージを発している点で共鳴している、と感じた。だからと言って災害のインパクトが減ぜられていることはない。過不足なく誠実で、目的に適ったものである。

通底する思想・強いメッセージ

では、そのメッセージとは何か。先日南三陸で開催された『全国被災地語り部シンポジウム』に参加されていた、ある語り部の方の発言が印象に残っている。震災の被災地域の方である。
「話し終えたあと、必ず聞くようにしていることがある。『今日の私の話が怖かった人は手を挙げてほしい』。手を挙げてくれる人がいれば、私は、やるべきことをした、と安心することができる」
それぞれの遺構に、それぞれ語られるべき事実がある。それらは必ずしも美談ではないし、美談で片づけることは望まれていない。生き延びた方々も、果たして判断が正しかったのか自問自答を続けていたり、あるいは救い切れなかった方々に対する自責の念を抱いたり、いまでも多くの傷を持ち続けていることが伝わってくる。みなさん苦しみながらも、次につながる教訓を引き出そうとしているのである。
各サイトで地域の方々によるインタビュー動画や証言集を拝見した。津波がいかに理不尽であり、想定を超える災害であったか、何よりもその恐ろしさを伝えたい、という深い意志を感じ取ることができた。感傷ではなく恐怖を、美談ではなく教訓を残そうと苦闘される関係者の尽力に敬意をあらわしたい。

今後の課題

筆者も運営に関与している「3.11伝承ロード推進機構(注2)」の理事、原田吉信氏は、これら30件の震災遺構を、将来世界遺産に認定してもらいたい、と考えている。
筆者もその考えにシンパシーを感じるものである。一方、これは過去に何度も議論されてきた話題でもある。いくつかのポイントが考えられるだろう。
世界遺産の登録基準には、文化的なもの(6つ)、自然的なもの(4つ)計10種の類型が定義されている(注3)。原爆ドームの例を想起すれば、本件のカテゴリとしては「vi)顕著な普遍的な意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、或いは文学的作品と直接又は実質的関連があるもの(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)」に含まれるのが自然な発想であるが、それでは、戦争・内戦などと同等のカテゴリ分けを良しとするのか、そも文化・自然いずれの側面も持つ事物が既存のカテゴリに収まるのか、議論を呼ぶだろう。
一方、認定要件とされている、国内法に基づく政府の保護(文化財保護法による指定)、保存管理計画の策定実施も、「当時の現場をそのまま維持する」というコンセプトとの関係において熟考を求められる事項であろう。
認定されるにふさわしい時期はいつだろうか。50年後、あるいは不幸にして次に津波が来襲し、教訓が生かされた後こそふさわしいのではないか、と、筆者はふと考える。歴史資料の分析によれば、当地域は平均して46年に一度は津波に襲われている(注4)地域であることを考えるに、その教訓を地域の力で維持する努力は、最低でも50年は継続しなければならないだろうし、また継続する意義がある、と考えるのは酷なことだろうか。
語り部の役割は、その災害を経験していない人々、すなわち外部に向けられている。実際に体験し心に傷を負った方達にとって、遺構に触れ、その話を聞くことは、ご自身の傷と向き合う辛さがあるに違いない。仙台市内で話を伺っても、遺構を訪れたことが無い、という人は存外に多いのである。時代が下っていくにつれ、語り部の方々が向き合う先は、同じ地域だが震災を経験していない世代に属す人々、近隣に移ってきたが被害を知らない人々、今まで真摯に向き合ってこなかったことを悔やんでいる人々、『内側の外部』とも言うべき対象に移っていくことになるだろうし、メッセージのあり方も変わってくるだろう。
震災から10年以上が経過し、次の世代が生まれ育つ現在、記憶を過不足なく伝達する正念場なのだろう、と思われる。語り部の方々も年を取り、デジタルアーカイブなどの取組みが精力的に行われている。潮風にさらされた遺構にも経年変化が認められ、維持修繕が必要となっている。逆説的ではあるが「生の体験」「本物の持つ重み」など、これまで当然あるものと見なされてきた価値は、今後不断に問い直されることになるだろう。マスメディアによる二次加工や美談・感動物語への安易な転化にも注意しなければならぬ。そのためにも、絶えず原典/原点に立ち戻る場所として、震災遺構の意義は引き続き重要と考える。
遺構だけではない。各自治体が設立した災害博物館、復興祈念館には、地震・津波の威力を伝える貴重な遺物が多く収集展示されており、見学者を立ち止まらせている。
心ある見学者は、何かしらの貢献をしたい思いに駆られるはずである。その受け皿を準備することが求められるだろう。入館料を求めないサイトもあるが、少なくないコスト・願いを投入した施設である。ありがたくいただけばよろしいのではないか、と思う。加えて、たとえば海岸沿いの防風林再生への寄付ができるようになれば、全体としてカーボンニュートラル(ネガティブ)・ツーリズムとして位置づけることも可能ではないか。
次回のG7科学技術大臣会合(2023年5月仙台市で開催)では、建設中のナノテラス(次世代放射光施設)に加えて、荒浜小学校震災遺構が視察行程に組み込まれるべく申請された、と聞いた。もし実現するならば素晴らしいことと考える(注5)。震災遺構の価値を高めるためには、今後海外の方々、同じように震災津波が襲う国の方々からの共感を得る工夫も問われることになるだろう。「まなびの観光」の拠点として、修学旅行や社会見学の必訪地として指定するなどの活性化施策も有効であろう。

震災遺構は観光資産たりうるか。その役割を果たすポテンシャルは十分にある、と筆者は考える。

(注1)震災の被害を伝える震災伝承施設のうち、被災状況を残したままの施設を「震災遺構」と呼んでいる。暫定的な定義である。30件の一覧を末尾に紹介する。
(注2)震災遺構、伝承施設に関する情報発信と広報等を目的とし、令和元年8月に一般財団法人として設立。令和4年3月末現在、青森・岩手・宮城・福島4県で計302件の震災伝承施設が登録されている。
(注3)世界遺産条約中に言及されるOUV(Outstanding Universal Value:顕著な普遍的価値)の要件として、「世界遺産条約履行のための作業指針」para.77において定義されている。
(注4)内閣府中央防災会議-災害教訓の継承に関する専門調査会「1896 明治三陸地震津波報告書」(平成17年3月)「第1章 三陸地方の津波災害概要」より。
(注5)荒浜小学校は、2016年6月のG7財務大臣・中央銀行総裁会議でも視察先となっている。

著者プロフィール

松岡 基嗣 (まつおか もとつぐ)

株式会社日本政策投資銀行 東北支店長