明日を読む

貿易・サービス収支の赤字をどう見るか

2024年8-9月号

早川 英男 (はやかわ ひでお)

東京財団政策研究所 主席研究員

かつて日本は貿易黒字大国であり、急激な円高に悩まされることも少なくなかった。しかし今では、貿易・サービス収支でみて赤字基調が定着しつつある。貿易収支は、リーマン・ショックと東日本大震災以降、企業の海外移転が加速して赤字の年が多くなっている。昨年も、原油価格の大幅下落にもかかわらず、赤字から抜け出すことはできなかった。一方、昨年のサービス収支はインバウンドの復活で大きく改善すると期待されていたが、デジタル赤字の急拡大の結果、赤字の縮小は小幅に止まってしまった。
もちろん、所得収支の大幅黒字が続いているため、経常収支の黒字基調に変化はない。しかし、海外現地法人の収益などは現地にそのまま貯め置かれて、国内に還流するのは一部に過ぎないから、為替市場の円買い要因にはならない。一昨年来の円安進行については、内外金利差拡大の影響が大きいのは言うまでもないが、こうした実需要因も少なからず影響していることは、多くの識者が指摘するとおりである。
その背景については、2つの見方があり得る。一つはシンプルに日本産業の競争力、ひいては日本の国力低下の表われだという見方である。財の貿易の面では、そもそも輸出産業の数自体が少なくなっている。かつて花形だったエレクトロニクスも今では輸入超過に転じ、輸出は自動車の一本足打法に近づいている(競争力を有する部品や素材もあるが、その規模は小さなものが多い)。また、その自動車産業もEV化の流れに遅れつつあることを考えると、何時まで競争力を維持できるのか心許ない。
それ以上に注目されているのがデジタル分野のサービス輸入増だ。最近では、①著作権等使用料、②通信・コンピュータ・情報サービス、③専門・経営コンサルティングサービスの3項目がデジタル収支と定義され、その赤字額が5兆円超と認識されるようになった。こうした高度なサービスにおいて、日本企業はGAFAM等の巨大テック企業に太刀打ちできないので、米国からの輸入が急増している。恐らく今年も、AI(人工知能)の使用料等が増えて、デジタル赤字は拡大を続けるだろう。
しかし、なぜ最近になってデジタル赤字が急拡大を始めたのかを考えてみると、それはこれまでデジタル化で遅れを取っていた日本企業が、DX(デジタル・トランスフォーメーション)に真剣に取り組むようになった結果ではないか。そうであれば、最近の大幅賃上げの実現や積極的な設備投資計画にみられるように、日本企業がこれまでの内部留保溜め込み一辺倒から、より積極的な姿勢へと転換しつつあることの表われと理解することもできよう。これが、貿易・サービス収支赤字拡大のもう一つの見方である。
実を言うと、デジタル赤字ほどには目立たないが、最近の貿易データをみると、かつては輸出ばかりだった資本財において、輸入が急増していることが分る。こちらは主に、ソーラーパネルや風力発電関連などの脱炭素目的の資本財の中国からの輸入であり、日本の政府・企業がGX(グリーン・トランスフォーメーション)に真剣に取り組み始めた結果だと解釈できよう。
これらから看て取れるのは、①これまでのリスクを取らずに組織防衛に専念する経営からの転換を目指しているが、②過去30年近くモノへの投資も人への投資も怠っていた結果、足腰が弱っており、必要なノウハウは海外から輸入せざるを得ない、という日本企業の姿である。だとすると重要なのは、今後の貿易・サービス収支の動向自体ではなく、DX、GXが示すような企業の戦略転換が本当の生産性向上等の成果を生み出すか否かだということになる。この答えが是であれば、貿易・サービス収支の赤字は当面拡大しても、いずれ日本経済が活力を取り戻し、円高方向に転換することが期待できる。一方、この答えが否ならば、今後の日本を待っているのは、歯止めなき赤字拡大と円安ということになろう。

著者プロフィール

早川 英男 (はやかわ ひでお)

東京財団政策研究所 主席研究員

1954年愛知県生まれ。東京大学経済学部卒業、プリンストン大学経済学大学院でM.A.取得。1977年日本銀行入行、その後、調査統計局経済調査課長、調査統計局長、名古屋支店長などを経て、2009年3月より2013年3月まで日本銀行理事。日本銀行在職中は、調査統計局長(2001年~2007年)を含め20年以上をリサーチ部門で過ごし、マクロ経済情勢の判断などに携わった。富士通総研経済研究所エグゼクティブフェローを経て、2020年5月より現職。著書には第57回エコノミスト賞を受賞した「金融政策の『誤解』」(2016年、慶應義塾大学出版会)などがある。