「失われた30年」で失われたもの
2024年10-11月号
「失われた30年」。1990年代初めのバブル経済崩壊以降、低迷を続けてきた日本をそんな風に言う。この言葉を聞くとき、私はどうしても違和感を覚える。日本社会のいったい何が失われたのかと。1989年にベルリンの壁が崩壊し、旧共産圏諸国は資本主義経済へ移行。成長する世界経済とは裏腹に伸び悩む日本経済。世界2位まで登りつめたGDPは2023年にドイツに抜かれ4位。一人当たりGDPは2022年からG7で最下位、OECD加盟38か国で21位。「失われた30年」はこのように経済の視点から語られる。しかし、国の社会を構成する要素として評価されるのは経済だけではない。この間に日本の文化や科学は失われたのか。そんなことはない。音楽界では、数多くの傑出した音楽家や新進気鋭の演奏家が世界で活躍。スポーツ界も同様だ。建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞の日本人受賞者は国別で最多。ノーベル賞もサイエンス分野における受賞者数は目を見張る。こうした視点から見れば、この30年における日本の立場は凋落どころか上進している。社会の中に経済があるはずなのに、経済の中に社会があるかのような錯覚に陥っているように思えてならない。なぜ、私たちは企業活動を続けてきたのか。利益は大切だが、カネ稼ぎが最終目的であるはずはない。お客様が、従業員が、そして企業自体が、豊かに幸せになるためではなかったか。日本が本当に失ったもの、見失いつつあるものはそうした感覚ではないか。
米国経営者団体ビジネスラウンドテーブルは、2019年に株主資本主義からステークホルダー資本主義への転換を宣言した。1970年代のミルトン・フリードマンの新自由主義により、米国企業は成長を遂げGDPも増大したが、所得格差を招き分断社会が生まれた。全米の家計資産のうち、上位1%で約3割を占めるような社会は持続的とは言えない。ところが「失われた30年」を取り戻したい日本は、米国を無意識のうちにイメージし構造改革や規制緩和を叫ぶ。行き詰まりを見せる分断国家とそれを生み出した米国型資本主義に救いを求めるのであれば、その帰結は目に見えている。日本にとって、経済的にも安全保障の面からも米国の存在は必要だが、尊敬される国を目指すのであれば、米国の価値観に偏重するアメリカニゼーションはすぐにでも見直すべきではないか。
では、いったい日本は何を目指すのか。そのヒントは江戸にある。経済的にも、文化的にも、社会の仕組みとしても、江戸時代は豊かであったことが知られる。江戸の社会では、国内完結の循環経済をカーボンニュートラルに実践。その暮らしはシンプルにしてエコロジカル、そしてサステナブルと言える。社会のあり方や価値観について江戸をイメージし見直すことで、かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賞賛されながらも、必ずしも尊敬の的になり得なかった日本も変われるかもしれない。人は働くことで幸せになりたいし、尊敬される存在でありたい。個人も企業も国も、目指すはウェルビーイング。江戸はそれを探るための一つの入口ではないか。
企業活動の目的は、幸福の追求である。そう考えると、やや手前味噌だが、当社が創業以来100年にわたって続けてきた「相互会社」は理に適っている。相互会社は保険会社にのみ許された組織形態で、株主は存在せず、保険の契約者を社員とする。契約者に代わり事業を運営するのが相互会社の務めであり、その結果である利益は配当として契約者に還元される。保険会社の最大の責務は、いかなることがあっても保険金等を確実にお支払いすること。だからこそ、長期的な目線で利益を生み続けることが重要であり、株主利益の最大化とは相容れない。当社が相互会社であり続ける所以である。「相互」を意味する「THE MUTUAL(ザ・ミューチュアル)」をコンセプトに掲げるのもこうした想いから。成長それ自体を目的化しない相互会社のあり方は、保険会社以外にも適用できそうな気もする。株式会社に比べガバナンスが効き難いと言われるが、ガバナンスは企業経営の目的ではなく目的を達成するための手段である。精神的・経済的な幸福と利益の追求のためにガバナンスを如何に効かせるかということだろう。何を幸福とするかは人によって異なる。しかし、一人ひとりが幸福であるために働き、企業が存在するのだと思い定めていたら、日本の「失われた30年」は少し違ったものになっていたのではないか。