明日を読む

日銀の利上げ戦略修正と市場の動揺

2024年12-2025年1月号

早川 英男 (はやかわ ひでお)

東京財団政策研究所 主席研究員

日銀は3月のマイナス金利解除に続いて、7月末には追加の利上げ(政策金利0.1%→0.25%)に踏み切った。その直後、内外の金融市場は円高、株安など大きな動揺に見舞われたが、これをどう考えればよいのだろうか。
まず指摘すべきは、今回の追加利上げが日銀の利上げ戦略修正の結果だったという点である。植田総裁は、就任以前のインタビューなどで、イールドカーブ・コントロール(YCC)のように副作用の大きな政策は早めに止めたいとする一方、政策金利の引上げについては、「早過ぎるリスクの方が遅過ぎるリスクより大きい」として、慎重な姿勢を示してきた。その後1年余り、日銀はその通りに動いてきたと言える。
実際、YCCが正式に廃止されたのは3月のマイナス金利解除と同時だったが、それに先立って昨年10月に形骸化が進められていた。これに対しマイナス金利解除のタイミングは、2%超の物価上昇が2年近く続き、今春闘での大幅賃上げが確認された後だった。こうしたbehind the curve戦略を前提とすれば、7月の利上げは「早過ぎ」の印象を与える。
と言うのも、7月までに公表されたデータには、実質賃金の低下で個人消費の弱含みが続き、物価上昇のテンポもややスローダウンするなど、全体に弱めのものが多かったからだ。もちろん、賃金上昇率は徐々に高まっていて、実質賃金にも物価にもプラスに働くことが予想できた。それでも従来の考え方なら、この夏のデータを確認した上で、9月か10月の利上げと考えるのが自然だったと思う。
にもかかわらず7月利上げを選択したのは、円安の進行につれて「遅過ぎるリスク」が予想外に大きいと気付いたからだろう。3月以降、日銀が追加利上げに慎重姿勢を示したり、円安容認の印象を与える発言をする度、想定以上の円安が進んだ。円安が消費者心理に悪影響を及ぼしているのは明らかだったし、企業が消費者心理の悪化を懸念して値上げを躊躇うようになれば、2%物価の定着にも悪影響を及ぼしかねない。だから筆者は、ここで日銀が利上げ戦略を修正したこと自体は概ね妥当だったと評価している。
日銀の追加利上げ直後の金融市場は、急激な円高・ドル安や日米双方での株安など、大きな動揺を経験することとなった。しかし筆者は、これらは基本的に行き過ぎた円売り、テック株買いポジションの巻き戻しによるものだと理解しており、市場の動揺の責任を日銀の拙速な利上げに求めるべきではないと考えている。
不幸だったのは、7月の雇用統計悪化に伴って一時、米国景気に対する極端な弱気論が強まったことだろう。コロナ後の米国景気は、21~22年頃の前半と昨年以降の後半を分けて考える必要がある。前半は、移民流入減少やシニア世代の早期退職から労働供給が減った時期(負の供給ショック)であり、成長率が低下する中、労働需給が逼迫してインフレ率が急激に高まった。後半は逆に、移民流入が増えて若年層の労働参加率も高まった時期(正の供給ショック)であり、潜在成長率を上回る成長が続く中、労働需給の緩和、インフレ率低下が始まった。
最近の米国経済は基本的にこの後半のトレンドの範囲内にあり、最近は景気後退懸念も薄らいできている。米国景気のソフトランディング・シナリオが維持される限り、FRBが急速な利下げを強いられることはない。実際、9月にFRBは0.5%と予想を上回る利下げを実施したが、その後も大幅に円高が進むことはなかった。
以上を前提とすれば、日本においても金融政策正常化路線が大枠として継続される可能性が高い。だが、日銀の利上げ戦略修正に関しては十分な説明が行なわれたとは言えず、市場も十分納得しているとは思えない。金融市場の動揺にも、金融政策の先行きに関する不確実性の高まりが少なからず影響している可能性を考えると、日銀には政策意図に関するより丁寧な説明が求められよう。

著者プロフィール

早川 英男 (はやかわ ひでお)

東京財団政策研究所 主席研究員

1954年愛知県生まれ。東京大学経済学部卒業、プリンストン大学経済学大学院でM.A.取得。1977年日本銀行入行、その後、調査統計局経済調査課長、調査統計局長、名古屋支店長などを経て、2009年3月より2013年3月まで日本銀行理事。日本銀行在職中は、調査統計局長(2001年~2007年)を含め20年以上をリサーチ部門で過ごし、マクロ経済情勢の判断などに携わった。富士通総研経済研究所エグゼクティブフェローを経て、2020年5月より現職。著書には第57回エコノミスト賞を受賞した「金融政策の『誤解』」(2016年、慶應義塾大学出版会)などがある。