『日経研月報』特集より

「NYKデジタルアカデミー」が育むイノベーションとリーダーシップ~日本郵船グループの挑戦~

2024年12-2025年1月号

石澤 直孝 (いしざわ なおたか)

日本郵船株式会社イノベーション推進グループ グループ長/NYKデジタルアカデミー 学長

企業を取り巻く環境に大きな変化が起きている今日において、あらゆるビジネスシーンにてイノベーションがより求められる状況となっています。
本特集では、イノベーションの仕組みやそれを支える人材育成に焦点を当てています。この度、企業内アカデミーにて先進的な取組みを進めている日本郵船株式会社 石澤様に、2019年9月に設立した「NYKデジタルアカデミー」に関し、設立に至る背景・内容・成果等についてインタビューを行いました。また、アカデミーの卒業生である大東鷹翔 様(現 日本郵船(株)イノベーション推進グループ先端事業・宇宙事業開発チーム 課長代理)に体験談などを伺いました(本稿は、2024年9月20日に行ったインタビューを基に弊誌編集が取りまとめたものです。)。

1. NYKデジタルアカデミー設立の背景

聞き手 まず、2019年にNYKデジタルアカデミーを設立した背景や経緯をお聞かせください。
石澤 当時、当社の経営幹部から「頼りがいのあるビジネスリーダーを次々と育成してほしい。」という指示がありました。私自身も、ボラティリティの激しい海運業界で当社が成長し続けるためには、新規事業を創出できる人材を育成し、挑戦する企業文化をつくっていくことが鍵である、と感じていました。
海運業界にも大きな影響を与えたリーマンショック、コロナ禍、紅海危機等を予め予想することは難しく、極めて不確実性が高い世の中です。不確実性を乗り越え、新たな事業を生み出していくには、知力と勇気を兼ね備えたリーダーシップを発揮できる人材が必要です。MBA派遣や教育会社のオンライン講義聴講など外部の教育機関を活用する方法もありますが、当社における人材輩出の取組みを「面」的に進めるために、当社自身が主体的に人材育成を行う必要があると考え、企業内アカデミーを設立するに至りました。毎年10人ずつ育成した場合、10年経てば100人の経験者を揃えることができ、そうすれば徐々に社内文化にも変化が起きてくると思っています。

2. NYKデジタルアカデミーの概要・特徴

聞き手 NYKデジタルアカデミーの概要を教えてください。
石澤 アカデミーでは、約9か月間にわたり、座学・ワークショップ、海外での短期合宿、新規事業創造に実際に挑む演習を行います(図1)。受講人数は、毎年10~20名としており、運営側の目が行き届きやすい設定となっています。また、多様性を確保するため、部署、性別などに偏りが出ないように気をつけています。

聞き手 イノベーションをリードできる人材を継続的に輩出していく仕組みを社内につくることは容易ではないと思いますが、どのように工夫をしてアカデミーのプログラムを設計しているのか、教えてください。
石澤 デジタルアカデミーには4つの特徴があります。1つ目は座学での講義内容として「リベラル・アーツ」を中心に据えていることです。不確実性の高い事業環境の中で、あらゆる運・不運に耐え、簡単には挫けない知性を築くためには、歴史に対する構造的な理解やメタ的な認知を持つことが重要です。ビジネススキルはもちろん必要ですが、社会学、行動経済学、芸術、科学史、データサイエンス、財務会計等を幅広く学ぶことで、不確実性の中でもチームを導ける強いリーダーシップ、既成概念に束縛されない自由な思考、社会とヒトに対する深い考察にもとづいた地に足のついた知性が育まれると考えています。もちろん、限られた時間でリベラル・アーツの全てを教えることはできないため、講義を通じて受講生の興味・関心を引き出し、自習を促すことがアカデミーの狙いです。
2つ目の特徴は、日本郵船の社員自身が講師を担っている点です。外部から講師を招く講義も一部ありますが、外部中心では受講生は他人事のように受け止めてしまうおそれがあります。社員自らが教鞭を取ることにより、受講生はその内容を自分事として捉え、より効果が上がると考えています。ただし、独りよがりなものにならないよう、外部の学術機関との連携も意識しています。
3つ目の特徴は、リベラル・アーツ教育とならぶ重要なコンセプトである「体験の提供」です。座学を通じた学習がある程度進んだところで、海外で「デザイン思考」を学ぶ短期合宿を行います。先ほど述べた背景からシンガポールマネジメント大学(SMU)と連携し、初対面の海外の人々とつながりながらビジネスを学習・実践する機会を提供します。現地のスタッフと英語でワークショップをする機会は、語学力を鍛える機会としてだけでなく、最終的には言語以上に自分自身の思考やアイディアが重要ということに気がつくという意味で貴重な経験です。
4つ目の特徴は、新規事業を創出する演習を組み込んでいることです。演習では受講生が3~4人のチームに分かれ、座学と海外での短期合宿を経て得た知識と経験をフル動員して、新規事業に実際にチャレンジします。事業の構想は、単に机上で行うだけでなく、実際に生身の人間とコミュニケーションをとりながら進めることが大事であると考えます。そこで、顧客でもありパートナーでもある人間を洞察する手法を学ぶためフィリピンの海事大学で2度目の合宿を行ない、地元の船員のみなさんと徹底的にコミュニケーションをとりながら、新規事業の構想について学ぶ機会を提供しています。帰国後は、事業を形にするべく、社外組織・企業からの具体的な支援・協業を前提とした契約を締結することを目指し、活動します。社内研修というフィールドを越え、外部の専門家・企業と積極的に対話し、新たな関係性の構築やその先にある市場創造に実際に挑戦することが非常に重要と考えています。最終的には、社長以下トップマネジメントが参席する報告会でプレゼンテーションを行います。
聞き手 どれもユニークなコンセプトだと感じましたが、その中でもリベラル・アーツ教育を核に据えている点は他の企業内アカデミーにはない特徴であると思います。どのような内容を実際に教えているか教えてください。
石澤 一例としてデータサイエンスの講義についてご説明します。日露戦争の頃、高木兼寛と森鴎外との間で繰り広げられた脚気対策論争があります。日本疫学の父とも称されている高木は、練習船を用いて実施した実証実験の結果から、脚気の発生と栄養欠陥との相関関係を指摘していましたが、森はその考えを因果関係(科学的理論)が不明であることから非科学的と批判し、脚気の原因は感染症であると主張します。慈恵医大創設者で実務家でもある高木は、因果関係は不明だが相関関係(データ)があるのなら導入すべきである、実務家は病人を見るのであって病気を見るのではない、という考えのもと、脚気対策として麦飯の重要性等を主張しました(図2)。

どちらの主張が正しかったかは歴史を振り返って初めてわかることですが、企業経営上向き合う多くの事象は因果関係が明確ではないケースがほとんどです。一方で、組織のリーダーたる経営者は、因果関係が分からずとも、何らかの判断を下し、組織としての行動に移さなければならない状況に頻繁に遭遇します。この時データサイエンスの知識があるかないかでは大違いです。相関関係とは経営者の判断基準となる有効な武器であり、決断の命中率を上げるためにデータサイエンスは存在し、だからこそ回帰分析を学ぶ必要があるものと考えています。
この事例のように、私の講義では単純に知識を教えるのではなく、なぜその知識が必要なのか、重要なのかを歴史という軸を持ち解説することを意識しています。また、具体的な事例を用いて、少しでもわかりやすく、また受講生が興味・関心を持つきっかけを掴めるように試行錯誤しながら設計しています。
リベラル・アーツを学ぶことで、イノベーションに挑戦するために目の前のことにとらわれずに自由に歴史をさかのぼり、世界的な視点でものを考えるマインドセット、未来に対する構想力、戦略的抱負でチームメンバーのエネルギーを高めながらマネージするリーダーシップを養うことが可能です。とかくビジネス研修ではビジネススキルの獲得にフォーカスが当たりがちですが、こういった物事の本質を考える力や人間力を鍛えることなしにイノベーションを生み出す人材を育てることはできないと考えています。
聞き手 デジタルアカデミーの成功要因は、新規事業創出と人材育成を結びつけている点にあるのではないかと感じましたが、その点はいかがでしょうか。
石澤 その通りです。ビジネスに必要な知識は、オンライン動画や講義でも学ぶことができますが、新規事業に挑戦するとナレッジだけでなく、実際の経験も得ることができます。オンライン学習にはないこの「経験」こそが人材育成において不可欠な要素と考えています。
研修で新規事業を取り上げることは、企業として新規事業創出に継続的に取り組んでいくうえでも極めて重要です。新規事業を事業部の事業として行うと、そもそも立ち上げるハードルが高く、またKPIも厳しく管理されます。過去に前例のない新規事業は失敗することが当たり前なのに、気軽にチャレンジすることができなくなるというジレンマにはまってしまいます。研修のカリキュラムの中で新規事業に取り組むことで、さまざまな事業アイディアを前向きに試しやすくなります。
また、多くの企業の新規事業の失敗要因の一つに、新規事業部が社内で孤立しがちなことが挙げられますが、研修という位置づけであれば、他の部署からのサポートも得やすくなります。また、そもそも受講生自身も異なる部署から参加しているため、チームとして新規事業に挑むことで、受講者は、社内の他部署との連携方法を学ぶことができます。アカデミー卒業後にいざ新規事業を構想するときにその経験が活きてきます。

3. NYKデジタルアカデミーの成果や広がり

聞き手 アカデミーを通じて生み出された新規事業は、その後どのような展開をみているのでしょうか。
石澤 アカデミーで構想された複数のプロジェクトが、終了後に実際の新規事業として立ち上がり、今なお継続しています。国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構と連携した船舶技術を活用した効率的なロケット打ち上げ方法の開発、商船を活用した漁業資源の可視化プロジェクトへの貢献、多摩美術大学とともに進める船員向けの新しいユニフォームの研究、など多くあります。
アカデミー発のプロジェクトのうち、外部の顧客・パートナー企業との契約・合意に実際に至った確率は45%超です。米国平均は5%程度といわれておりますので、より高い水準です。但し、まだ55%は不採用という事実もあり、もっと打率を上げていきたいと考えています。
聞き手 アカデミーはすでに5年目に突入したとのことですが、どのように手応えを感じているか教えてください。
石澤 過去に前例のない取組みですので、最初は戸惑いの声がなかったわけではありませんでしたが、5年間のあいだに、実際に受講したみなさんの声が広がり、実際に新規事業も立ち上がり始めたこともあり、認知してもらえるようになったのではないかと思います。今年度の受講生が卒業すると、累計の卒業生は95名に達しますが、卒業生が社内で一つのコミュニティになっています。この様子を見て、受講したいという社員が年々増えています。
また、より幅広い社員にデジタルアカデミーのエッセンスを伝えるため、新人社員や外国人スタッフなどを対象に2~3日の短期講座も開催しています。更に、新規事業を通じて構築された新しいネットワークや知見を社内に還元するため、たとえば宇宙分野などの外部講師を招くなど、社内向けセミナーなども年数回実施しており、あの手この手で社内に刺激を与えるべく、活動しています。

4. 企業内アカデミーのこれから

聞き手 近年、多くの企業で企業内アカデミーが立ち上がっています。これからの時代における、企業内アカデミーの存在意義について、お考えをお聞かせください。
石澤 インターネットの時代になり情報の非対称性はかなり低減されました。かつては一流大学でなければ受けられない講義、会えない教授、読むことのできない文献・データなどがありましたが、今はYouTubeなどの動画配信サイトを活用すれば手軽にアクセスすることができますし、多様な講義をオンデマンドで受講できるオンライン研修サービスもあります。現代は、実力のある教授・研究者であればあるほど、アクセスしやすい時代になっています。そうなると企業内アカデミーが提供する価値は、情報そのものではなく、他では得られない「経験」になると考えています。文字に書かれた理論・ケーススタディばかりではなく、ビジネスリーダーとして一皮むける体験を提供できるからこそ存在価値があると思っていますし、だからこそNYKデジタルアカデミーではその点を重視しているのです。
聞き手 本日のお話を通じて、デジタルアカデミーは、石澤様が今までの業務を通じて感じた問題意識や身に付けた知識・体験がベースになっていると感じました。また、今も最新の動向を追いかけ、新しい知識を吸収し続けておられると理解しています。どのように日常的に多様な知識の吸収を行っているのでしょうか。
石澤 私自身はこれまでIoT技術の普及促進や国際標準化活動、インド内陸物流といった新規事業創出などに携わってきました。そういった経験を通じて身に付けたものや考えてきたことをできる限り講義内容に落とし込んでいくつもりです。
新規事業に必要な知識は4象限に分類できると考えています。「社会潮流」、「人の本性」、「技術」、「ビジネスモデル」です。社会潮流は、人口動態、脱炭素の動向、政情不安など、機会と捉えるか、リスクと捉えるかはともかく、いずれにせよビジネスの基礎となる情報です。また、年齢・ジェンダー・国籍・信条に関わらず誰にでも共通している人の本性とビジネスの関係性については、近年の行動経済学の飛躍的な進展によりさまざまな点がわかってきました。この二つについて考えることは、新しいビジネスの需要を洞察すうえで大いに参考になります。
技術は、社会を前進させる原動力であり、細かいことはわからなくても、多くのことを広く知っておくことが重要です。また、今までに生み出されたビジネスモデルもたくさんあり、それらを知っておくことは重要です。
この4象限を意識して知識を日々アップデートしています。また、講義などを通じてアウトプットすることで自分の中に定着させるというプロセスを何度も繰り返しています。

5. NYKデジタルアカデミー卒業生の体験談

聞き手 卒業生の大東様にNYKデジタルアカデミーで得られた知識・経験について、受講生目線でお話をお伺いします。まず、NYKデジタルアカデミーの受講理由と受講を通じてリベラル・アーツを学んだ感想も教えてください。
大東 新規事業について学びたい、また実際に新規事業創出に挑戦したいと思い受講しました。リベラル・アーツの講義は一つ一つが面白く、知的好奇心を刺激する格好の材料です。講義を通じて、リベラル・アーツの重要性・面白さに開眼しました。リベラル・アーツは、それを学ぶきっかけを与えてもらわないと、その有用性に気づきにくいと感じています。
聞き手 受講を通じて、ご自身の中でどのような点が変わったと感じていますか。
大東 自らの仕事に対する取組みがより行動的かつ積極的になったと感じています。アカデミーでは、通常業務とは異なる会社公認の空間で、サンドボックス的な試行錯誤に思い切り挑戦できます。また、相手に対する価値提供をより意識するようになりました。海運業界の外で新しい連携先をつくるには、自分たちが相手に対してどのような価値を提供できるのか明確にしなければなりません。そのためには、会社、チーム、自分に対する深い理解が必要です。「裸一貫」で日本郵船は何をできるか、また自分として本当にやりたいことは何か、チームを率いるリーダーになるにはどういう存在でなければならないかを真剣に考えるようになりました。
聞き手 印象に残っている個別プログラムを教えてください。
大東 シンガポールで行ったブートキャンプは特に印象に残っています。私にとって、初めて新規事業に正面から向き合う瞬間でした。講義で方法論についてはある程度学んだ実感はありましたが、ブートキャンプは初めて道場に出て戦う場所であり、裸の自分になれる経験だったと思います。
聞き手 アカデミー卒業後に具体的に取り組んでいる新規事業について教えてください。
大東 「洋上データセンター(ODC project)」の事業を進めています。海は土地購入が必要なく、地震に備えた免振構造も不要です。また、データセンターは、発熱を緩和する冷却装置が不可欠ですが、海水を用いれば効率的に冷却することができます。さらに、海上であるためオフグリッドとなりますが、LNGによる自家発電を前提にしています。LNGは気化する際に熱を奪うため冷却効果を得られます。これはLNG船の技術を応用したものです(図3)。

聞き手 受講を通じて得られた一番のものは何でしょうか。
大東 やはり日本郵船が提供できる価値は何かを真剣に考え、仮説を設定して、さまざまな社外の人と意見交換しながらひとつのプロジェクトを作り上げるプロセスを学び、実践できた点にあります。大企業の新規事業は、さまざまな人と会いやすい点がメリットだと実感しました。ポイントは会い続けられる関係にいかに上手く昇華できるかだと思います。
最後に、卒業生である私は、今年度の受講生のチューターを務めています。アカデミーという同じ経験を持つ社員が増えることは会社全体にとって大きな価値があると確信しています。

著者プロフィール

石澤 直孝 (いしざわ なおたか)

日本郵船株式会社イノベーション推進グループ グループ長/NYKデジタルアカデミー 学長

NYKデジタルアカデミー学長 日本郵船株式会社イノベーション推進グループグループ長(兼任)
1967年、神奈川県生まれ。
2005年から2013年まで国際標準規格団体GS1(本部ベルギー・ブラッセル)物流部会共同議長として創成期のIoT技術の普及促進、国際標準規格審議に参画。
2014年からインド、ケニア、ウガンダなどで鉄道、港湾、物流の事業会社を設立、経営(Adani NYK Auto Transportation, NYK Auto Logistics India, BN Auto Logisticsなど)
事業家としてアジア・アフリカ地域でデジタル技術を活用したビジネス活動を展開。