思索の窓
「寄り添う」ということ
2025年4-5月号
私はよく家の近所の公園を散策する。自然の中を歩くと、日頃整理をせずに流れるままに放ってあった諸々のことが頭の中でふと繋がることがある。
訪れる人を包み込んでくれる木々に癒されながら、公園の真ん中にある池に向かう階段を降りて行く。数年前にその階段は手摺りが新しくなり段差も程よく緩やかに整備され、多様な人びとが公園を利用できるよう配慮されている。
昨年、89歳の母が自宅で大腿骨を骨折し、手術後リハビリ病院に入院した。寝たきりになるかと心配したが、面会に行くたびに表情が明るくなっている。母から話を聞くと、少しでもできるようになるとリハビリ指導の方々が一緒になって喜んでくれる、と言う。まずはベッドから車椅子への移動、次の週には車椅子から立ち上がってのスクワット、そしてその次の週は歩行練習。そうか、10年以上前から母の筋力の衰えを心配した私は母にスクワットをした方がいいとアドバイスをしたり、何度か一緒にスクワットをやってみたりはしてきたが、一緒に喜ぶことはしなかったなあ、と思い返す。
池の橋は渡らず、気付けば無意識に人と同じ方向に向かう。人はなぜ反時計回りに歩くのだろう。そういえば陸上競技のトラックも反時計回りだ。そんな思考の流れに身を任せていると、時計の針が20年近く巻き戻り、私はベンチャーキャピタル(VC)の投資担当としてベンチャー企業の社長から投資相談を受けている。その社長はとても熱心に自分のビジネスモデルの優れた点と課題について真摯に説明し、私はその社長の人柄や情熱に好感を持つ。私も自らの投資経験(実は失敗経験の方が役に立つ)を正直にお返ししたいと思い、現状ではVC投資には向かないこと、そして補助金など別の資金調達方法について真摯にアドバイスし、その社長とは気持ちよく別れた、つもりだった。そして数年経ったある日、上場したベンチャー企業の新聞記事を目にする。企業名は違うが社長の氏名に記憶がある。実はその社長は、私が相談を受けた事業では失敗した(その意味では一応私の見る目は正しかった)のだが、その失敗した事業に出資をした後、その失敗にも拘わらずその社長が再チャレンジする際にも支援を続けてくれた投資家がいたこともあり、見事上場を果たしたそうだ。
池の反対側に出ると、同じ池でも景色はがらりと変わる。ケガをする数年前の母の表情が再び目に浮かぶ。助けたいけど、どうせ大した効果はないと考えて初めから諦める。助けが必要な人や企業や地域に対して「寄り添う」ことが大切だという主張がなされ、お金や人手をかけて支援する。一所懸命アドバイスをしたり、一緒に取り組んだりする。それでも表情が明るくならない、効果が出ない。
「寄り添う」という言葉は地方創生以前の地域開発支援、介護の現場、そしてベンチャー支援、さらには災害復興支援など、いろいろな支援を必要としている分野でよく使われてきた。しかし、そもそも「寄り添う」とはどういうことか。それは上から目線や押し付けがましい印象が持たれることもある「支援」ではない。まず「困りごと」に対して「共感」を持って接すること。そして「困りごと」の解決には唯一の正解がなく、「困りごと」を抱えている主体毎に答えが異なり、また状況によって答えが変わってくることも心得ておく必要がある。要すれば、答えのない問いに向き合い、そして関わり続けるということか。
武蔵野の面影を残す林を歩いていると、2年ほど前、当月報の『時評』に「日常生活に埋め込まれているコモンズ」(『日経研月報』2022年11月号)をご寄稿いただいた井上真教授の、“自分たち自身が汗を流して「関わり続けること」が重要”という言葉が思い浮かぶ。人間の生活を中心とした研究に対する強い意志が印象的だった。
共感して関わり続け、そして、少しでも前に進んだら一緒に喜ぶこと、これが「寄り添う」ことの基本なのかもしれない。